『分解する』 リディア・デイヴィス

e0110713_1333377.jpgリディア・デイヴィスの真骨頂は、真実と嘘の兼ね合いの見事さ、の一点に尽きるといっても過言ではない。真実に拘泥し、自分の身の回りに起きたあれこれを貧乏たらしく書き記した身辺雑記に終始してそれでよしとしたのが日本の私小説。しかし、そんなもの誰が読みたかろうか。そこにはアート、技芸に対するリスペクトが微塵も感じられない。

一方で嘘も百篇つけば真実になるを地でいったものもある。ところが、これも同じで、あまりに嘘くさいものは、いくら面白おかしく飾られていても、祭りの見世物よろしくどこもかも嘘で塗り固められていては、祭りの終わった後の寒々しさに耐えられない。

人は、嘘の中に真実を求めるものなのだ。嘘と知っていればこそ、安心して生の真実を受けとめることができる。これは本当のこと、と打ち明けられて、真実を語られたら身も蓋もない。嘘だからね、と前置きされてこそ真実を聴く覚悟ができるのだ。

ある人にとっては、人である前に女や男であって、女と男が真実を語るとなれば別れ話をおいてない。別れ話を切り出されて、私のどこが悪かったの、と思わない女はいない。あなたのそういうところが云々と語る男もきりがない。身に覚えがあるからこそ、人は劇であれ小説であれ、作り物の別れ話にうつつをぬかす。

『分解する』は、作家が自分をまな板に載せて、男と暮らすことを選んだ自分の根底までを手探りしてみせる、その一方でものを書くことを生業とする者が、それをどう書けば生業たらしめることができるのかを問うた実験のようなものでもある。こう書けばわかるか、こういう形で書いても面白い。ならばいっそこういってみるか、という文体練習のようなものが、そのまま一切の飾りや誤魔化しを欠いて投げ出されてここにある。

かといって、練習にありがちな甘えやできそこないの跡はない。ためらいや、しでかしたミスはすべて、徹底的に掃除されている。そぎ落とし、削り取り、これでもかというところまで噓くささは拭いとられている。読む者はそこに自分のものでしかない感情や心理が裸で震えているのを発見する。徹底した抽象は普遍的な具象に通底するものなのだ。

一方で、赤の他人が書いたものをしれっと使って、まるで自分の日記か伝記のようにそれらしく書いてみせるのもこの作家のお家芸だ。自分と他人との間に垣根がない。人間など所詮みな同じ。自分の考えることは他人も考えるし、自分の感じる悲しみや辛さは他人も感じているはず。だからこそ、自分の感情や思考を掘り下げているのだ。

であれば、他者の書いた手紙や日記をもとにして何かを書いても、それは嘘でも何でもない。他者は自分であり、自分こそ最も卑近な他者なのだから。何をおいても自分が興味の対象というタイプの人間にとっては、リディア・デイヴィスを読むことは自分を知る最高の手がかりなのかもしれない。
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by abraxasm | 2016-09-20 13:33 | 書評

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