『ほとんど記憶のない女』 リディア・デイヴィス

e0110713_14203557.jpg最初に読んだのは、今は別の男と暮らす女が過去の失敗に終わった恋愛を回想するという小説を執筆中の作家が交互に主人公を務める、『話の終わり』だった。リディア・デイヴィスは、プルースト『失われた時を求めて』第一巻『スワン家の方へ』の英訳で受賞経験を持つ翻訳家でもある。フーコー、ブランショ、サルトルなどを訳しているというから、その実力のほどが知れる。全部で五十一篇を収めた短篇集『ほとんど記憶のない女』の中には、「フーコーとエンピツ」と題した短篇もある。
腰をおろしてエンピツを片手にフーコーを読む。水の入ったグラスが倒れ、待合室の床が濡れる。フーコーとエンピツを置き、床を拭いてグラスにふたたび水を注ぐ。エンピツ片手にフーコーを読む。フーコーを置き、メモ帳に書きとめる。エンピツ片手にフーコーの続きを読む。

と、まあこんな調子の文章だ。これは何だろう、と思う。小説か?これは。行分けしていない詩か?いや、ちゃんとストーリーは進行している。待合室という一語がカギになる。この後、カウンセラーと、「緊迫した関係がしばしば激しい口論に発展する状況について話し合う」。この人物は、地下鉄に乗り、フーコーを読みながら、乗客たちについてメモを取り、ひとしきり口論について考えたあと、フランス語で読むフーコーの分からなさについて考える。

「意識の流れ」の手法に近いが、ずっと言葉をそぎ落とした記法で、フーコーの翻訳に携わる人物が、一緒に旅をした相手との関係についてカウンセリングを受け、地下鉄で帰るまでを描く。カウンセリングを受けるくらいなのだから、人間関係に問題を抱えているのだろうに、思考はいつしか口論一般という抽象論に走り、思いつきをメモする。それを終えるとメモ帳をしまい、フーコーの文章のわかりにくさについて考え、メモを取る。

主語すらない、着ている服とか、髪型とか、普通の小説ならまず触れる細部は全部すっ飛ばした文章なのに、おそらくは女性と思われる人物のキャラクターがおそろしく鮮明に立ち上がってくる。きわめて知的な人物で、自分の問題さえ客観的に考えることができる。そればかりではない。スイッチを切り替えるような思考を通じて、口論と旅とフーコーの文章という無関係に思われる事象の間にある連関が見えてくる。

口論はそれ自体が一つの旅に似てくる。口論をする人々は、センテンスから次のセンテンス、さらに次のセンテンスへと運ばれていき、しまいには最初の場所から遠く離れたところにいて、移動と、相手と過ごした長い時間のために疲れはてる。(略)フランス語で読むフ-コーはわかりにくい。短いセンテンスより長いセンテンスのほうが分かりにくい。長いセンテンスのいくつかは、部分部分はわかっても、あまりに長いために、最後にたどり着く前に最初のほうを忘れてしまう。最初に戻り、最初を理解して読み進み、最後まで来るとまた最初のほうを忘れている。

困難な状況下にある人間の途切れがちな思考の前に立ちはだかり、一つの名詞が目くるめく変化を見せつつ延々と続くフーコーのフランス語。フーコーの文章については、その流麗さとともに難解さが話題に上るのが常だが、読者がそれを知っていることを前提にしないと、主人公の置かれた状況は伝えられない。英文学者で、フランス文学の翻訳をしている作家でなくては書けない種類の短篇である。

もちろん、五十一篇すべてがこんなスタイルではない。もっと短いものはわずか数行のものもある。長いものの中には、「サン・マルタン」のように、若い二人が住み込みの管理人としてフランスの田舎の屋敷に暮らした一年間をほぼ事実のままに書き連ねた、至極まっとうな、日本でいえば私小説風の一篇もある。どうでもいいことながら、ここで何度も「私たち」と記される二人は、作者リディア・デイヴィスと、当時つきあっていた、作家のポール・オースターである。

どうして分かるかといえば、食べるものがなくなった二人が、キッチンで見つけた玉ねぎでオニオンパイを作るが、一つを食べていて美味しさに夢中になり、残りのあることを忘れ、黒焦げにしてしまう切ない場面や、世話をしていた二匹のラブラドル・レトリーバーの一匹がいなくなったことなど、すべてオースターの『トゥルー・ストーリーズ』ですでに読んでいたからだ。題名通り、すべてが実話とオースター自身が書いている。

偶然手に入れた19世紀イギリス貴族の書簡集をもとに、北欧、東欧、ロシア等をめぐる旅の記録という体裁で書かれた「ロイストン卿の旅」は紀行文。北方の地の自然や交通手段等、当時の旅の様子がよく分かると同時に、英国貴族がロシアやその他の国の人々をどう見ていたかが一目で分かる。書簡をもとにした紀行文なのに、集中最も小説らしさを感じさせるのが、おかしい。リディア・デイヴィスが「私」の突出を抑え、黒子に甘んじているからだろう。

主語も動詞もなしに男女の諍いを書くという挑戦的な短篇「ピクニック」は、たったこれだけ。
道路脇の怒りの爆発、路上の会話の拒否、松林の無言、古い鉄橋を渡りながらの無言、水の中の歩み寄りの努力、平らな岩の上の和解の拒絶、急な土手の上の怒声、草むらの中のすすり泣き。

たった二行の中に、ピクニックに出かけた男女のうまくいかなかった一日が結晶している。好きな人には、たまらないのがリディア・デイヴィスという作家だ。新刊『分解する』は、邦訳としては新しいが、作家としては出発点にあたる作品。岸本佐知子が偶然、『ほとんど記憶のない女』を手にしなければ、ここまで邦訳が続いたかどうかは疑わしい。それほど読者を選ぶ作家だ。お気に召したらぜひ手にしてみてほしい。
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by abraxasm | 2016-09-19 14:21 | 書評

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