『千年の祈り』 イーユン・リー

e0110713_17361676.jpgイーユン・リーのデビュー短篇集。第一回フランク・オコナー国際短篇賞を受賞した、その完成度の高さに驚く。どれも読ませるが、読んでいて楽しいと感じられる作品が多いわけではない。むしろ苛酷な人生に目をそむけたくなることのほうが多いのだが、読み終わったあとの索漠とした思いの中に、真実だけが持つことのできる確かな手触りと哀しい明るさのようなものが残っているのを感じる。誰の人生にも人それぞれの秘密が潜んでいて、周りが考えるほど単純なものではない。リーの筆は、ときに厳しく、ときには優しく、人々によりそって、固い殻に覆われた外皮の奥にある核を明るみに出す。全十篇のどれも捨てがたいが、親と子の結婚観をめぐる考え方のちがいが対話を通して浮かび上がってくる作品が少なくない。

「市場の約束」も、その一つ。三十二歳になる、三三(サンサン)は、大学を出てからずっと生まれ育った町の師範学校で英語を教えている。夫も恋人も親しい友人もいない。母親はそんな娘を心配し、幼なじみで結婚してアメリカに行った土(トウ)が離婚したから、結婚したらどうか、と学校までやってくる。母は旅の客相手に屋台で煮玉子を売っている。他の店とはちがい、茶葉と香辛料をふんだんに入れたそれは絶品だ。

三三と土は結婚の約束をしていた。天安門事件の頃、大学に美人で評判の旻(ミン)という同級生がいた。学生運動のせいで就職がふいになった旻のために、土と偽装結婚して渡米する策を授けたのは三三だった。ところが、二人は三三を裏切り、本当に結婚してしまう。そのことを知らない母は結婚しない娘の気持ちが分からない。母を悲しませていることを知る娘もまた悲しい。そんな三三の前に一人の男が現れる。男の商売は、金を払った相手にナイフで体を切らせることだった。映画のような幕切れがひときわ鮮やかな一篇。

「死を正しく語るには」は、リーの子どもの頃の実際の思い出が生かされていると思われる。武装兵士に警備された核工業部の研究センターに勤務する父と教師の母を持つ「わたし」は、リーの出自に重なる。その「わたし」は、夏と冬の一週間だけ、ばあやの住んでいる胡同(フートン)にある四合院で暮らすことができた。胡同の子どもたちの暮らしは、秘密のベールに覆われた研究所の子どもたちのそれとはまったくちがっていた。原爆を落としたトルーマンや失脚した劉少奇の名前が、遊び唄の中に出てくるのだ。

地主階級だったせいで、親が決めた甲斐性のない男と結婚してしまったばあやは、その不甲斐なさを詰りながらも夫を愛していた。同じ四合院に住む北京の庶民階級に属する人々が、夕涼みに出てくる中庭での会話や、鶏をつぶして煮込み料理を作ったり、君子蘭を大事に育てる様子など、おおらかで、開けっぴろげで、それでいてつつましやかな、昔と変わらない中国の人々の飾らない暮らしぶりを、今は成人した女性の回想視点で綴っている。文化大革命や天安門事件といった大文字の歴史の裏に隠された日の当たらない庶民の暮らしぶりを描くとき、リーの筆はあたたかくやさしい筆致をしめす。無頼を気取る宗家の四兄弟でさえ、懐かしく思い出される対象となるほどに。

表題作「千年の祈り」もまた、心の通じない父と娘の関係を描いている。結婚してアメリカに暮らす娘の離婚を聞きつけた石氏は、なぜ離婚したのかを娘の口から聞きたくて、観光を理由に渡米する。結婚したら夫婦は何があっても共に暮らすものだと昔気質の父は考えている。ロケット工学者だった石氏は、秘密を漏らすことを禁じられ、家族にも無口で通してきた。両親が不仲であったことを娘は知っていた。会話のない家庭は上手くいかない。夫と別れたのも、父と会話ができないのもそのせいだ。

石氏はアメリカに来てから公園で出会ったイラン人女性と通じない言葉で度々会話をしている。言葉の通じない他人同士の方が、血のつながった家族より気持ちが通じ合えるという皮肉。実は石氏には秘密があった。彼と家族の間に壁が築かれていったのはそのせいだ。しかし、妻も娘も周りの噂で気づいていた。隠しおおせていると思っていたのは父親だけだったのだ。アメリカを去るにあたり、石氏はマダムと呼んでいるイラン人女性にだけは、真実を打ち明けなければと思い、隠されていた秘密を語りだす。

父と娘のような近しい関係にある間どうしであっても、何かが邪魔をして、心と心が通じない状況に陥ることがある。それはいつの時代のどこの国であっても起きることかもしれない。しかし、大きな悲劇をもたらすものが、神でも運命でもなく、国家であったり、党であったりする時代、社会というものがあるのだ。人と人との自由な話し合い、語らいが許されない時代、社会状況がどんな悲劇を生むか、リーは声高には主張しない。話者は諦念を秘めた静かな声音で語りだす。聞く者は耳をすませて、その語るところを聞かねばならない。いかに嗚咽の衝動に迫られようとも、その口が閉じられるまで、じっと口を閉じ、耳を傾けねばならない。

リーは、これらを英語で書いている。中国語でなく、英語で書くことで、かえって書けるのだという。自由な考えや思いをそのまま表現することを禁じられ、封じてきた国の言語でなく、自分の思いは口に出して他者に伝えなければ何も始まらない土地に来て、ほとばしるように物語が出てきたのだろう。そのみずみずしい水脈は尽きることを知らない。近くて遠い国が、この作家の登場により、一気に近づいてきた印象を受けるのは評者だけではあるまい。
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by abraxasm | 2016-06-07 17:36 | 書評

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