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『ゴーレム100』 アルフレッド・ベスター

『ゴーレム100』 アルフレッド・ベスター_e0110713_14501637.jpg西暦2175年。カナダからサウスカロライナ州にかけてのびる<北東回廊>はスラムと化していた。なかでも旧ニューヨーク地区は<ガフ(でまかせ)>と呼ばれ、ありとあらゆる悪徳がはびこる無法地帯となっていた。ただ、そのジャングルは常時死と隣り合わせであるだけに、金の力で住居や移動の安全を確保することができる一部の特権階級にとっては、より一層生の輝きが増す場でもあった。その一方で、大衆は半年の間も続く冬の寒さや慢性的な水不足に悩まされ、入浴や洗濯ができないことから北東回廊には耐えられない悪臭が漂い、それを厭うため香水に対する需要が爆発的に増大した。

160年ほど先の未来が舞台。ベスターが描く<ガフ>は、混沌としてはいるが猥雑で生気に満ちた映画『ブレードランナー』に出てくる街のようだ。格差社会は二極化が進み、有閑階級は豪華な<オアシス>にいる限り、安泰だがいつも退屈をもてあましていた。女王蜂リジャイナが率いる八人の蜜蜂レディたちが退屈しのぎに始めた悪魔召喚が事の起こりであった。たびたびの召喚にもかかわらず悪魔は一向に姿を現さない。一方、<ガフ>の警察組織の隊長インドゥニは、目の前で証拠物件が消えてしまったり、百の手が人体から腸を引っ張り出したり、というそれまで見たこともない残虐な殺人事件の群発に手を拱いていた。

同じ頃、香水製造会社CCCでは、ヒット商品を開発してきたシマ博士の様子が近頃おかしいことに困惑し、セーレム・バーンという魔術師を雇う。バーンはシマがフーガという一種の夢遊病状態にあることを見抜き、精神工学者グレッチェン・ナンに頼ることをすすめる。フーガ状態にあるとき別人格のシマが歩くコースと殺人現場が重なっていることが判明し、ナンとシマ、インドゥニの三人が協力して、奇怪な事件の犯人ゴーレム100(百乗の意味)を追う。死体に残されていたプロメチウムという希土類元素を手がかりに、無意識界に潜入し、ゴーレムを追うシマとナン。ゴーレムの正体はフロイトのいうイド。一人一人の時は超自我によって抑圧されていた死の衝動や性衝動が、八人が集合して儀式を行なったことで、本人たちの気づかないままに発動していたのだ。

1980年に発表されながら、翻訳の難しさもあって邦訳が遅れていたアルフレッド・ベスターのSF長篇である。読み終わった後で思うのは、こんな面白い作品が未訳のまま放っておかれたなんて、という驚きだった。確かに、三十五年もたっているので、フロイト学説もそうだが、今となっては懐かしい、と感じられる部分もある。しかし、そんなことはどうでもいい。サイバーパンクの先駆ともいえるようなカーニバル的興奮に満ちた<ガフ>の描写。主要な登場人物三人の人物像のくっきりとした描き分け。生き生きとした会話の妙味。楽譜や挿絵といった図版を駆使したタイポグラフィーの実験。SFに限らない文学的自己言及。何よりも、あからさまなまでにセックスや殺人に対する通俗的な興味をかき立てながら、内宇宙という超俗な位相に展開するそのアイデアに満ちたストーリーが読ませる。

エピローグはジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を思わせる造語で綴られている。柳瀬尚紀の訳を思い出させるその奮闘振りを見ても、訳者の苦労をしのばせてあまりある。本文も俗語、卑語を多用した掛け言葉等の続出で、なるほどこれでは翻訳が遅くなったのも無理はない、と思わされた。原語で読んで見たいなどという恐ろしいことはちらっとでも頭をかすめはしなかったが、解説の中で、一部なりと原文を紹介するような労をとられたなら、翻訳の意義がもっと伝わったのではないか、と思った次第。
by abraxasm | 2015-11-26 14:50 | 書評

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