『密会』 ウィリアム・トレヴァー

e0110713_14302538.jpg「現代のチェーホフ」と呼ばれる短篇小説の名手、ウィリアム・トレヴァーの短篇集。若島正がその著『乱視読者の英米短篇講義』のなかで「つまらない作品をひとつとして書いたことのない」と称えたトレヴァーである。死にゆく人の最期に付き添う姉妹が亡き夫の仕打ちを赦すことのできない妻の心を癒す「死者とともに」から、時間を盗むようにして束の間の逢瀬をくり返してきた恋人同士が別れることを決めるその日を描いた表題作「密会」に至る全十二篇。どれも外れのない読み応えのある名篇ばかり。

読み応えがあると評したのは、一口に「面白い」といったのでは、トレヴァー作品の魅力を言い表したことにならないからだ。まず、尋常ならとても面白いとは言い難い人物がしきりと登場する。紹介所を通じて紹介してもらったばかりの相手に食事代を払わせようとする自称写真家(「夜の外出」)だとか、ストーカーのように別れた妻のあとをつけまわし、過去に自分が中傷された経緯を聞いてもらいたがる被害妄想気味の朝食係ウェイター(「路上で」)だとか、ちょっとつき合いたくないタイプの人物が少なくない。

トレヴァーが書きたいのは、人を感動させたり、泣かせたりする「ちょっといい話」なんかではないのだ。かといって、暗くて憂鬱な人生を描くためにわざと卑小な人物ばかりを探し出しているわけではない。人物に寄せる視線が偏っていないのだ。トレヴァーの小説に登場する人物は、まず市井のどこにでもいるような人々である。裕福な人々も登場しはするが、だからといって幸福であるとは限らない。同様に貧しい人がいつも幸せであるわけでもない。どの人物も弱みや悩みを抱えて生きている。トレヴァーは、その心の脆さに目を向ける。まるで姿の見えない精霊か何かで束の間それらの人物の心のなかに入り、いっとき憂いや惑いを共にし、満足すればするりとそこから抜け出てしまう。いなくなる寸前、小説でいえば結末の部分に、神に近いものがそこにいたという少しばかりの温か味に似たものを残して。

難しい言葉は使っていないのに、読んでいて何やらよく分からない気がする話も多い。ふつうなら、必要となる情報を出し惜しみしすぎるきらいがある。本当はもっとたくさん書いていながら、推敲段階で削れるだけ削っているのだ。小説として成立するぎりぎりのところまで削ぎ落としている。読者に親切な作家ではない。しかし、それが作品の中に不可解な部分を生み、その不可解さを解消しようとして読者は最後まで読み通そうとする。そして最後に至り、結末を締めくくる話者の言葉に有耶無耶でであったものが、すっきりした形に整えられたのを感じて納得させられてしまうのである。

「ジャスティーナ・ケイシーだけは道理にかなっている。クロヘシー神父は、今度もまたもそう思い、その思いが繰り返し頭に浮かぶことを嘆かわしく思いながら首を振った。正直な話、道理も何もまったく理解できない娘なのだ」というのが「ジャスティーナの神父」の書き出しである。誰もが信仰心をなくしてしまった今日、ジャスティーナのように告解し、罪を償うものはいない。無邪気で皆に愛されるこの娘にどんな罪があるのか。姉のメーヴは何に苛立っているのか。読者はなかなか手がかりを得られない。皆が口を揃えていい娘だと言うジャスティーナには学習障害があった。メーヴは老人病を患った義父、パブ通いがやめられない夫の他に妹の面倒まで見なければならない。神父と一緒に静かに神の恩寵を祈りたくなる一篇。

小説好きには、「グレイリスの遺産」がお勧め。突然遺産相続の話を受けたグレイリスは相続権放棄の手続きのため隣町の弁護士を訪ねる。妻の望む銀行家の出世コースを外れ、図書館の分館に勤めることを選んだグレイリスには、昼休みに小説好きの女性と話をするという密かな楽しみがあった。三年後、人の口の端に二人のことがのぼりはじめたのを知り年上の女性は町を去った。遺産はその女性からだった。妻も死に、二人の間に何もなかったが、グレイリスは遺産を放棄する。そこには彼なりの思いがあった。どの作品もそうだが、最後を締めくくる話者の言葉が心にしみる。何人もの作家や作品名が二人の話に挙がる。知らない名前の作家も多いが、そんな中にエリザベス・ボウエンの名が入っているのが嬉しい。トレヴァーと同じアングロ・アイリッシュの作家である。

暗い話も多いが、一抹の救いは用意されている。安心して読まれたらいい。そんななかで、「ダンス教師の音楽」は、一人の娘が十四歳の時に耳にした音楽の調べが、年老いて死ぬまで身の回りから離れることなく、彼女を包んでいることを語る、人と音楽との出会いの奇蹟を描いた、トレヴァーにはめずらしい、ひねりのない愛らしい佳篇。ほかに歳の離れた男女の心の通じ合いを描いた「伝統」、娘が起こした事故を隠蔽するため故郷を捨てた英国人一家の話(「孤独」)、夫の才能を生かそうと妻が考えた秘策(「聖像」)、恩師の苦境に涙する少女(「ローズは泣いた」)、アメリカ暮らしを夢みた男女の別れを描く(「大金の夢」)を含む。
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by abraxasm | 2015-08-30 14:30 | 書評

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