『プニン』 ウラジーミル・ナボコフ

e0110713_18110998.jpg何故かナボコフの作品の中でこれがいちばん好きかもしれない、という気がしてくるから不思議だ。主人公は、ほぼ作者ナボコフ自身の経歴をなぞった亡命ロシア人の大学教授ティモフェイ・プニン。新大陸アメリカのウェインデル大学でささやかなロシア語講座を担当している。冒頭で読者は講演の依頼を受け、近隣の市に向かう列車に乗ったプニンを目にすることになる。禿げ頭に鼈甲ぶちの眼鏡、頑丈そうな上半身につりあわない華奢な足といった外見から、大学での講義の様子まで、およそ魅力的とはいいがたいが、傍目で見て笑いものにするにはもってこいという喜劇的な人物像が語り手によって描写される。実はプニン、乗る列車をまちがえている。時間短縮を図ったつもりがプニンが見たのは今は使われていない古い時刻表だった、というオチだ。

バナナの皮があるのを知らずに歩いてくる人物を描いたマンガのようなもので、その先に起こることを本人は知らないが話者と読者は知っている、というのは読者に話者と共犯関係にある優越感を抱かせる語りのスタイルである。しかし、徐々に分かってくるがこの語り手、通常の語り手とはいささか異なる位相にいる。どうやらプニンの友人であるばかりでなく、プニンの人生と深い部分で関わりを持つらしい。しかも、文中プニンの言うところによれば「彼は恐るべき創作者」で「なんでもでっちあげてしまう」というから、いわゆる「信頼できない語り手」ということになる。いかにもナボコフらしい仕掛けである。

あるところまで読んでくると、この語り手のいうことをどこまで信じたらいいものかという疑念が読者に生じる。すると、それまで滑稽に見えていたプニンに共感する気持ちが湧いてくる。からかうような筆致の中に、語り手は、友だちを大切にし、別れた妻が男との間に作った子にも愛情を注ぐ、心優しい男の像を忍ばせてもいるのだ。そればかりではない。プニンは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』における時間の問題を滔々と弁じたり、シンデレラの靴がガラスとまちがえられた理由をその語源から解説して見せたりする。プニンは、異文化であるアメリカ社会の中に放り込まれることで滑稽にも変人にも見えているが、もし、正しい場所に置くならば、それなりの処遇を受けるに相応しい人格高潔にして学識豊かな人格者であることが読者にも分かるように書かれているのだ。

ストーリー自体は、うぶで女性に弱く、昔の恋人や自分を裏切った妻のことが忘れられない不器用な男が、周囲の思惑のためにようやく見つけた安住の地を奪われるという悲しい話である。それが、愛すべき人物プニンを取り巻く友人たちの好意や愛情によって住むところを得たり、休暇旅行に誘われたり、息子からの贈り物に一喜一憂したりという、ささやかなあたたかさによってくるまれて読者に届けられるので、ナボコフの小説の中ではちょっと他とはちがう感想を持つ。

一見したところ亡命ロシア人を題材に、ニューヨーカー向けの都会的なユーモアに溢れた連作短編小説とも読めるが、全篇をまとめて一篇の長篇小説として見ると、そこにはナボコフならではの複雑な構成が見えてくる。まずプニンの過去に寄せる郷愁が、事あるごとに彼を襲う。それは心臓の発作の形をとったり、単なる忘我のためという形をとったりするが、リスの形象は要注意だ。幼い時に病床でみた衝立に描かれたリスと壁紙のシャクナゲの模様が、そのまま今のアメリカでプニンを取り巻く自然と重なるあたり、『賜物』で使われた「チューリップ」の手法を思い出す。

語り手が蝶の蒐集家であったりするのも、作者とプニンの友人である話者を同一視させる手で、最後の章では、語り手は何食わぬ顔をして作中に登場してみせる。プニンとの関係を自ら語るばかりでなく、町を出てゆくプニンのセダンとすれちがい、追いかけもする。自らが造りあげたプニンという人物は、いうまでもなくもう一人の自分で、いうならばドッペルゲンゲル。ポオの『ウィリアム・ウィルソン』の例を待つまでもなく、自分がもう一人の自分と出会うときは、悲劇が起きる。どうやら、ナボコフも最初は、それを考えたらしい。しかし、最終的には今のラストを採用した。語り手がプニンを見送るときの文章は、相手の再出発を祝福しつつ名残りを惜しむという意味あいで『ロリータ』の谷間から聞こえてくる少女らの声を描いた箇所にも比して美しい。、

「小さなセダンは大胆にも勢いよく前のトラックを追い越し、前をさえぎるものがなくなって、輝く路面をばく走しはじめた。道はしだいに細くなって、静かにたなびく霞のなかで黄金の糸と化し、山また山が連なる美しい遠景の彼方には、どのような奇蹟がひそんでいるか何人にも予測することはできなかった」

しかし、これで終わらず、非情にもプニンの物真似をする同僚を最後にもってくるあたりが、ナボコフらしい。そうそう感傷的になって余韻に浸り続けていられても困るのだ。それよりも、ナボコフのよき読者なら、さっさと冒頭にもどって、文中に仕込んでおいた仄めかしや伏線を追いかけて、作中に巧妙に仕組まれている、初め読んだのとはちがう、別の小説を読むべく再読、三読にかかることを求められているからだ。

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by abraxasm | 2015-07-05 18:11 | 書評

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