『中上健次』(池澤夏樹=個人編集日本文学全集23)

e0110713_18234282.jpg全集で難しいのは数多ある代表作の中から何を選ぶかということだろう。中上といえばよく引き合いに出されるのがアメリカ南部にある架空の地ヨクナパトーファ郡に起きた多くの人々と出来事を描いたウィリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サーガだが、中上がそのサーガの舞台としたのは、架空の場所ではなく彼の郷里である紀州、新宮のとりわけ路地と呼ばれる集落であった。その路地生まれの秋幸を主人公とした『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の三部作を池澤はあえて避け、秋幸の母フサを主人公に据えた『鳳仙花』を選んでいる。これが好い。

わざわざ日本文学全集で中上健次を読んでみようと考える人は、中上健次について不案内なはず。のっけから路地だの秋幸だの龍造だのといわれても、その輪郭がつかめないだろう。そういう意味で『鳳仙花』は、その世界を概観するためにはいちばんふさわしい。これを読んで面白いと思ったら三部作を読んでどっぷりと紀州サーガにのめりこめばいいし、そうでなくとも『鳳仙花』一篇はそれだけで充分読み応えのある傑作である。

主人公のフサは兄三人姉三人の下にできた父親のちがう妹で六つちがいの兄吉広を慕っていた。昭和六年三月。十五歳になったばかりのフサは吉広の口利きで親許の古座を離れ新宮にある佐倉という材木商の家へ女中奉公に出る。佐倉の家は大逆事件で幸徳秋水らに連座した「毒とる」と呼ばれた医師の弟筋にあたる。貧しい肉体労働者や門徒に頼りにされていたが、事件以来、天子様に弓引いたと周囲から掌を返したような扱いを受けた過去を持つその佐倉が何を考えてか人足らを大量に抱えこんでいる。この家を包む不穏な空気がフサの目や耳を通して伝わってくる。フサの成長を描く小説ではあるが、地霊が潜む新宮の地は奥が深いのだ。

紀州は木の国である。平地というものがなく山が直接海に落ち込んでいる。海沿いの町を結ぶ道はなく船便に頼るしかない。山から切り出した木は木道に油を引いた上を材木を束ねた木馬(きんま)を曳き、筏に組んで川に流す。危険な仕事だから男たちは勇み、あらぶる。山から降りれば女が欲しくなる。廓に通うだけでなく、手近な女に声をかけ浜で事に及ぶ。男も女も性に関しては奔放だ。フサにもすぐに男が言い寄る。吉広に似た勝一郎は路地の男だった。所帯を持ち、次々と子どもが生まれ、フサは行商をして子どもを育てるが、時局は厳しさを増すばかり。

貧しい暮らしの中で若くして多くの子を生んだ女が背負わなくてはならない人並みでない苦労が描かれるのだが、ひとつも湿っぽくならない。解説で池澤が古事記に喩えているが、自分の男を美しいと思い、生(性)を謳歌し、次々と子を産むフサは子を孕むごとに美しくなり、まるで神話の神のようだ。日本の神話だけではない。陽光溢れる紀州の海はエーゲ海や地中海を思わせ、フサの生む子もまた美形で知力や胆力に恵まれている。背中に彫り物を入れたイバラの龍こと浜村龍造さえいかつい大男であることやその正体が闇に包まれていること、次々と女に手を出しては子ども孕ませることなど、どこかの神を思わせる。

戦前から戦中戦後、朝鮮戦争の不穏な時代を背景に、古くから熊野信仰で知られる新宮に残る御燈祭や御舟漕ぎといった季節の神事を絡ませ、様々に入り組んだ差別的な環境の中で、差別を受ける側に視点を据えながら、卑屈にならず、逃げず、投げやりにならない主人公の半生を描く。その生き方は猛々しいまでに圧倒的に強く美しい。時にくず折れてしまいそうになるとき、小さいながらも子どもたちのなかに芽生えつつあるフサのものでもある向日性や小さな生をいとおしむ優しさが溢れ出て母親を支えるのが美しくも愛しい。

ほとんどロマンスといっていい物語性の強さにもかかわらず、これが日本文学の中でも指折りの傑作小説といえるのは、ほぼ家族史といってもいい「私小説」的な枠組みを用いながら、私小説に見られる自堕落なまでの主観的な事実へのもたれかかりに甘えることなく、周囲の人々への聞き取り、神話、民俗学、歴史から学んだことを溶かし込んで、果敢に小説的な試みに挑んでいることにある。作者の勉強ぶりもさることながら、その恵まれた感性や資質、特に海鳴りや山の音についての度重なる言及から、作者の音に対する感覚の鋭さは注目に値する。それが功を奏しているのか、語り口の好さはまさに音楽といってもいい。いつまでもその独特のリズムに乗っていたいと思わせるものがある。

他にオリュウノオバが語る中本の一統の男たちの物語、「半蔵の鳥」「ラプラタ稀譚」。今昔物語その他日本の古典に想を得た幻想譚「不死」「勝浦」「鬼の話」。ルポルタージュ風のエッセイ「古座」「紀伊大島」を所収。いずれもこの不世出の作家の才能をあますことなく伝える佳品ばかり。幻想文学好きには「不死」を含む三篇だけでも読まれることをお勧めする。中上健次は如何にそれが有名であったとしても、紀州サーガにとどまる作家ではなかったことが思い知らされる。

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by abraxasm | 2015-06-15 18:24 | 書評

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