『Novel 11,Book 18 ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』 ダーグ・ソールスター

e0110713_12161830.jpg誰もそのことによって傷つけられはしない(本人は別として)。それどころか、その行為に加担することで利益を得る者すらいる。しかし、道義的に見れば社会的に許されない行為であることはたしかだ。事実を知れば誰も彼を許そうなどとは考えないにちがいない。何が彼をしてそのような行動に駆り立てたのだろうか。それは自分の人生がかりそめのものでしかなく、人生そのものにもともと意味を感じられない男の考え抜いた果ての決断であった。

オスロにある中央政府内の官僚ビョーン・ハンセンは三十代半ばの頃、妻子を捨て、情事の相手の故郷コングスベルグに居を移した。今彼は五十歳。女とはとっくに別れたが、市の収入役の仕事は続けている。週に一度はホテルで食事をし、休日には親友とハイキングを楽しみ夕食を共にする。優雅な独身生活を送る男が、女との過去の生活を回想したり、新しく同居を始めた息子との関係に心を配ったりする、事件らしい事件も起こらない身辺小説と思えたものが、最後にとんでもないサスペンスが待っていた。 

フィヨルドで知られるノルウェイ南部に、古くから銀鉱山の町として開かれたコングスベルグ。首都オスロでキャリアを積んでいた男がどうしてすべてをなげうってやってきたのか。女は教職のかたわら、市の素人劇団の中心メンバーとして周囲の男を惹きつけていた。痩せ型の美人でコケティッシュな身ぶりが魅力的な女は見逃せば一生後悔する相手だった。将来を約束された暮らしより、魅力的な女との生活を選んだのは愛のためではない。それが証拠に、女のふりまくコケットリーが容色の衰えに連れて見苦しくなってくると、男の心は離れている。

視点はつねに主人公に置かれている。小説はこの男が周りにいる人間を観察し、それに合わせて自分の動きを同調させてゆく様子を丹念に描く。事件らしい事件は最後まで主題にはならない。作者の興味関心はこの男の考え方や行動の方にある。そういう意味では、主人公に共感を感じることができなければ読み続けることができない。それでは、主人公ビョーン・ハンセンとは、どんな男なのか。

一口で言えば、ビョーンは「危ない」人である。 人並以上に知的能力を持ち、人あたりもよく、社会にも適合することができるのに、ある期間それが続けば退屈を感じてしまう。何でも思うようにできることが、かえって彼に刺激を感じさせなくなってしまうのだ。何かを成し遂げるために努力しているときはいいが、いざそれができたらそこには退屈が待っている。彼はそれに長くは耐えられない。そこから脱出し、生きている実感を得るには新しい冒険に身をゆだねるしかない。 

それによって自分の周囲にいる人間がどうなろうが正直なところ眼中にない、徹底したエゴイストである。ただ、積極的に相手を傷つけようなどとは思ってもいない。それどころか、金銭的な保証その他は手抜かりない。二歳の時に捨てた息子が同居を求めてきた時も気安く応じ、息子のために新しく家具を買い入れたり、部屋の模様換えまでしたりしている。しかし、そこには通常の父親らしい感情は感じられない。怜悧に観察対象である息子を観察し、その孤独に気づいても手を差し伸べることはしない。無関心ではないが不干渉の態度に終始する。

自分の人生が、自分で考え、行動してきた結果として目の前にあると感じられる人には、所詮この小説は絵空事である。主人公は反社会的ではないにしても不道徳で非社会的人物として断罪されてしまうにちがいない。しかし、幾度か人生の岐路に立ったとき、そのときそのときの成り行きに任せて道を選んできた評者のような薄志弱行の人間には、主人公の生き方はさほど奇異なものには思えない。体の不調を訴え、診断を受けた医師との出会いがなければ、ビョーンの想念は想念のままで現実化しなかっただろう。あくまでもゲームとして始めたものが、しだいに抜き差しならない現実と化してしまう恐怖を描いたものとしてみるなら、この小説はかなり怖ろしい。

訳者である村上春樹がノルウェイ滞在中の無聊を慰めるため、原著の英訳本を手にとり、タイトルの面白さにも魅かれ買い求めたのが日本語訳に手を染める契機であったという。原著はノルウェイ語で書かれているため、英訳からの重訳。ダーグ・ソールスターは、ノルウェイを代表する作家だが、外国に翻訳されるようになったのは比較的最近のことらしい。自他を問わず、人間を見つめる目のシニカルなところや、それでいて人の心の内奥にまで迫るような妙な親近感を感じる、斜に構えているようでいて、その実真剣すぎるほど真剣な文章が忘れ難い印象を残す。ちょっと癖になりそうな作家の登場である。

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by abraxasm | 2015-05-24 12:16 | 書評

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