『パリの家』 エリザベス・ボウエン

e0110713_12122419.jpg三部構成で一部と三部は現代の「パリの家」を舞台とし、間に挟まれた二部は十年前の親の世代の恋愛事件を扱っている。ヘンリエッタは十三歳。早くに母を亡くし、父の都合でロンドンを離れ独り伊仏国境近くに暮らす祖母の家に向かう途中、同行者の都合で、パリでの乗り継ぎを余儀なくされる。時間待ちにあてられた祖母の知人ミス・フィッシャーの家には、レオポルドという九歳の少年がいた。彼ははるばるイタリアからまだ見ぬ母に会うため、この家を訪れていたのだ。レオポルドの母カレンはミス・フィッシャーの友人で、かつては亡父の婚約者であった。

母が来られなくなったという知らせをレオポルドが受けたところで、話は十年前に遡る。カレンはイギリスの上流階級の娘で、一家は人々に愛される名望家であった。ミス・フィッシャーの母親は元家庭教師でフランスの学校に通う名家の女子を寄宿させていた。カレンはアート・スクールの学生だった頃、そこに下宿していたのだ。娘のナオミと仲よくなり、家の客であったマックスともそこで知り合った。カレンがレイと婚約した頃、ナオミとマックスの婚約を知る。遺産相続のためにイギリスを訪れた二人はカレンと再会し、旧交をあたため合うのだが…。

お互い婚約者がいるにもかかわらず、或は逆に婚約を発表してしまったことによるのかもしれないが、カレンとマックスの間に恋愛感情が生じ、ドーヴァー海峡を挟んでの逢引きに発展してしまう。カレンがフランスを訪れたブローニュでのそれ。マックスが渡英してのハイスでのそれ。どちらも許されぬ恋であるが故の切ない逢引きが描かれる。特に雨の日のハイスにおける情景描写は哀切極まりないのだが、皮肉なことに二人の言葉のやりとりは微妙にすれちがい、感情の交感もどことなくちぐはぐなまま。この違和感はどこから来るのだろうといぶかりたくなる。

エリザベス・・ボウエンはヘンリー・ジェイムズやジェーン・オースティンを尊敬していたという。たしかに登場人物たちの取り澄ました会話や言葉と裏腹の関係にある心理の表し方などに共通するところを見ることができる。一口でいえば登場人物が一様に素直でないのだ。老嬢たちは意地が悪いし、子どもは早くから自意識が芽生えた結果、感受性が異常に肥大し、奇妙にひね媚びたませた口を利くくせにすぐに涙を流したりする。

ひとつにはヨーロッパという土地柄があるのかもしれない。この作品でも、人物たちはさかんに国境をこえて移動をくり返す。簡単に他国にいききができる利点もあるが、考え方や気質のちがう者同士が同じテーブルを囲むのが日常茶飯という環境では、分かりあう努力をするより分かり合えないことを前提に話す技術を身につけることが肝要なのかもしれない。気持と裏腹な会話が行き交う所以である。

それだけではない。同じ国の人間であっても階級差というものがあり、それにつきまとう貧富の差がある。結婚問題を主題とする小説にあっては、階級や資産というのは恋愛の妨げにはならずとも、その成就としての結婚ということになると、とたんに前に立ちはだかる巨大な壁となる。自分の気持ちに正直になることが幸せな結果にいたるというような気楽なお国柄ではないのだ。それに加えて人種の壁もある。アイルランドとイギリス、イギリスとフランス、それぞれ歴史的な角逐があり、ユダヤ人に対する偏見がことをよりいっそう複雑にする。

さらに、世慣れた大人と若者の間にある年齢差が輪をかける。社会的な地位や評判を手にし、何不自由のない暮らしを続けることが当然といったカレンの母ミセス・マイクリスの冷徹とさえ思える泰然自若とした態度も凄いが、ナオミの母マダム・フィッシャーの人を支配して飽き足らない、情愛に寄せる業の深さも恐ろしい。世間知らずの若者たちは、この母親たちの犠牲者である。

過去の恋愛事情が生んだ結果として、里子に出されたレオポルドの去就が問題して残る。
来られない母の代理として登場するレイの困惑ぶりが生まれと育ちを感じさせ、登場人物のなかで唯一感情移入ができそうな人物として造型されているのが一抹の救いか。時代がかった三角関係の恋愛物をそれぞれが位置する層と層の間にある差に目をとめることで知的な意匠を施し、現代小説に仕上げてみせた作者の力量に脱帽した。新訳というからには、旧訳より読みやすくなっているのだろうが、いくつか分かりづらいところがあった。旧訳と読み比べるという手もあるかもしれない。


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by abraxasm | 2015-05-20 12:12 | 書評

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