『別荘』ホセ・ドノソ

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鉱山から採掘される金を叩いて金箔に加工したものを輸出することで莫大な財を成したベントゥーラ一族は毎夏使用人を引き連れ、マルランダと呼ばれる原野に築かれた別荘で避暑するのが習慣になっていた。別荘の周りは金の穂先をつけた槍で囲われ、その先はグラミネアと呼ばれるプラチナ色の穂を出す繁殖性の高い植物で一面が埋まっていた。屋敷と敷地内で過ごすほかない休暇に窒息し始めていた大人たちは、三十三人の子どもたちだけを屋敷内に留め置いて、自分たちは料理人や下働きの者を乗せた馬車を連ね、ハイキングに出かけることを思いつく。

17歳になるフベナルを筆頭に、屋敷に残された従兄弟たちは、その日の夕刻には帰ると言って出かけた大人たちのいぬ間に、好き勝手、したい放題に過ごすのだったが、ウェンセスラオだけは、大人たちは帰ってこない。人喰い人種が襲ってくるので僕らを見捨てて逃げ出したのだと言い張る。原住民に人肉嗜食の習慣があったことは子どもたちも聞かされて知っている。時と共に屋敷内に募る不安のなかで、子どもたちはそれぞれの思惑に耽り、屋敷内には不穏な空気が満ちてゆく。

ウェンセスラオの父アドリアノ・ゴマラは、ベントウーラ一族とは無縁の医師で、母バルビナとの結婚を契機に一族に参入した新参者だった。一族の栄耀栄華は、原住民を弾圧し、搾取した結果によるものと知ったアドリアノは、治療に携わるうち、原住民よりの考えを抱くようになる。その意見は一族の不興を買い、アドリアノは狂人として狭窄衣を着せられ塔に幽閉されていた。ハイキングは大人たちの留守を狙いアドリアノの奪還を策したウェンセスラオの計略によるものだったのだ。

しかし、大人の留守を狙っていたのは、ウェンセスラオだけではなかった。帳簿付けを任されていたカシルダもまた、これを機会に金箔の塊を馬車に積んで持ち逃げを考え、異父妹であることで従兄弟の中で一人遺産相続権を奪われていたマルビナも一族への復讐を企んでいた。外ではアドリアノを仰いで蜂起するためにグラミネアに紛れて攻め寄せる原住民の集団、内では陰謀や復讐の企み。何も知らず、それまでの遊び「侯爵夫人は五時に家を出た」に耽る上の階の子どもたちは大人を真似て怠惰に倦み疲れ、背徳的にもペデラスティの悪癖に耽溺し、衣装倒錯や近親相姦の誘惑に身を捩じらせているばかりだった。うわべの華やかさの陰で、ベントゥーラ一族の腐敗と崩壊は後一押しのところまできていたのだ。

鉱山から採れる金属資源を外国に売ることで莫大な利益を独占し、住民を虐げる権力を医師上がりの部外者が原住民を組織し戦いに打って出るも、外国からの支援を受けた元支配者と、その手先の反撃を受け、窮地に陥るといった図式は、作品が書かれた時代と、作家がチリ出身であることを考えれば、ピノチェト将軍がアジェンデ政権を倒した、9.11のクーデターを思い浮かべない者はいない。この小説を寓話として見る意見が多いのも無理はない。ただ、よく言われるとおり、寓話ほどつまらない形式はない。この小説、たしかに露骨なほど寓意を含んではいるが、この面白さに寓話などという解説は不要だ。

まず、舞台となるマルランダを覆いつくすグラミネアという植物だが、外国人にだまされて種を撒いたのがまちがいのもと、生い茂る在来の樹木や草を飲み込み、見渡す限りの役にも立たぬ草原にしてしまい、もとの住民を山並みの向こうに追いやってしまう。何故かといえば、夏も終り、穂先から綿毛が飛ぶ季節になると折からの風に乗った綿毛は空を覆いつくし、顔はおろか体中に纏いつき人は息をすることもできないからだ。ラテン・アメリカ文学ならではの驚異的現実というやつだが、これだけではない。

子どもたちが、原住民の蜂起に遭い、屋敷が混沌とした状況に陥る間、大人たちはピクニックを堪能しての帰路、近くの礼拝堂で休憩を取るが、なんとそこには襤褸をまとったカシルダとファビオの姿が。屋敷に起きた変事を知り、直ちに執事を中心に使用人たちで編成した部隊を屋敷に向かわせる大人たちだが、グラミネアの綿毛の脅威を恐れ、子どもたちの監督、処罰を執事に任せ、そのまま首都に引き返す。寓話といわれる所以だが、子どもたちが屋敷で遭遇した暴動騒ぎの一年が、大人たちが水辺の楽園で過ごした一日に当たるという、まるでアインシュタインの特殊相対性理論のような時間の流れ方の遅れが凄い。これぞ、マジック・リアリズム。

作家自ら小説のなかに登場し、ベントゥーラ一族のモデルとなった一人に、書いたばかりの原稿を読み聞かせ、実際とちがうと言わせるなど、ポスト・モダン小説のはしりを感じさせ、さらに、メタ小説として、モデルとやりあう際の文体は卑俗なリアリズム調を、物語然とした別荘での出来事を叙述する際は時代がかったロマンティシズム溢れる華麗な文体を使用するなど、どこまでも意識的な小説作法を駆使した克明にして詳細な叙述は、道徳も倫理もかなぐり捨てたように、淫蕩にして放埓三昧に耽る年端もいかぬ少年少女の穢れきった遊び、飢えかつえた逃亡の果ての人肉嗜食にまで及ぶが、読者には登場人物を現実存在ではなく「言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在」として受け入れてもらいたいといった所感を予め作中に登場する作家に言わせるなど、どこまで行っても食えない作家である。それでいて『シテール島への船出』を思わせるピクニック風景の臈長けた美しさなどは、他のラテン・アメリカ作家では味わえない官能美を湛える。酸鼻、叫喚、悪意ある哄笑を厭わぬ向きには推奨できる逸品といえる。

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by abraxasm | 2014-09-23 15:59 | 書評

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