賜物

沼野充義氏によるロシア語版を底本とする新訳である。初訳は大津栄一郎氏訳による白水社版(1967年)だが、英語版からの翻訳であったことや、当時ナボコフ研究が今ほど進んでいなかったこともあって、この作品の持つ複雑な構成や背景をあますところなく日本語に置き換えたとまでは言えず、新訳が望まれていた。沼野訳は、懇切丁寧な訳注を多用した労作で、ナボコフならではの手の込んだ仕掛けや言語遊戯が格段によく分かるようになった。

『賜物』は、ナボコフがロシア語で書いた最後の長編小説である。舞台になっているのは1920年代のベルリン。主人公のフョードルは、文学を志す青年である。彼の父は有名な学者であり探検家でもあったが蝶の採集旅行中に中央アジアで消息を絶った。母と姉を亡命先のパリに残し、青年は一人ベルリンで、文学修行中である。小説は、フョードルの文学的成長と一人の女性との恋愛をからませながら、やがて彼が書くことになる一編の小説を暗示して終わる。

主人公の視点で描かれる、当時のベルリン市街の情景が、ドイツ嫌いであるにもかかわらず、青年らしい瑞々しい筆致で浮かび上がり、読者はまるで現実の二十世紀初頭のベルリンの街に入りこんでしまったように感じさせられる。それでいて、いつの間にかグリューネヴァルトの森は青年の故郷ペテルブルグにある領地レシノの記憶に置き換えられている事に読者は気づくことになる。フョ-ドルは紅茶もマドレーヌもなしに、絶えず回想の光景の中に入りこんでしまう。

故郷喪失者として、フョードルは、いつもロシアから離れられない。それと、父が一緒にいた幼い頃の記憶が、彼の文学の通奏低音となる。第一章は、フョードルの詩を主題にしているが、その中に「失われたボール」と「見出されたボール」という詩句が登場する。プルースト的主題の暗示であろう。第二章では、遺された父に関する資料をもとに、父の愛したプーシキンを意識しながら、中央アジア探検の旅を描き出そうと試みる。天山山脈やゴビ沙獏を行く父の探検旅行には、いつしか「ぼく」の分身が紛れ込む。主人公の眼で描かれる中国辺境の地の光景は異国趣味的発想の強いもので、ナボコフの創作と思いがちだが、訳註によれば当時刊行されていた複数の探検記録に基づいて書かれたものらしい。

ナボコフは、作家志望の青年を主人公に据えることで、ロシア文学という副主題を持ち込むことに成功している。主人公が出入りする亡命ロシア人文学サロンの仲間との対話を通じて、あるいは、フョードルの独白や作品に、プーシキンやゴーゴリと言ったロシアを代表する文学者の主題を自在に展開している。そればかりではない。何と、フョードルが書いた作品として第四章まるまるを、チェルヌイシェフスキー(ロシアの評論家、革命家)の評伝にあてている。丸谷才一が、この手法を愛で、自作に採り入れたのが『輝く日の宮』である。所謂小説内小説という形式だが、レーニンもその著作を愛読したという歴史的人物が戯画的手法により徹底して矮小化されており、最初の出版ではこの部分は削除されるという憂き目を見る。

運命に操られた男女がすれちがいを繰り返しながらも、最後に出会うというモチーフは、ナボコフ偏愛のものらしく『ディフェンス』にも用いられていたが、ここでも、フョードルと下宿の娘ジーナとの出会いは、運命ならぬ作者ナボコフの手によって、何度もすれちがいを演じさせられている。読者は、最終章の二人の会話から、それまで何度も彼らが、出会うチャンスを逸してきたことを知らされ呆気にとられる。よく読んでみれば、初読の際にはまず読み過ごすであろうというさり気ない叙述の仕方でヒントを与えられていたのだ。ナボコフのほくそ笑むのが見えるようだ。

「気がつかずに通り過ぎてしまいそうな細部が、別の場所で再現反復されたり、他の細部と照応したりする」手法はここでも健在で、下宿の黄色の地にチューリップを描いた壁紙が、女性の服地になったり、第一章で知人の息子の自殺現場に居合わせたセッター犬を連れた建築家が、最終章で、フョードルが日光浴している同じグリューネヴァルトの森に律儀にも顔を見せたりしている。

その森に向かう途上、主人公の目を通して、読者は興味深い少女の姿を見ることになる。「この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力の―それは明確なものであると同時に、無意識的なものでもあった―ひとかけらが含まれていたのだ(中略)そして今擦れ違った少女の方を振り返って、ずっと前からお馴染みの、束の間しか姿をとどめない黄金の線を捕えると、それはすぐさま永遠に飛び去った。このとき彼は、一瞬、絶望的な欲望がこみ上げてくるのを感じた。それは満たすことができないがゆえに、魅惑的でもあり、豊かでもある―そんな欲望だった。低俗な悦楽をつかさどる陳腐な悪魔よ、「好みの種類(タイプ)」などというひどい決まり文句でぼくを誘惑しないでくれ。いやそんなものではない、それを超えた何かなのだ。」

この口吻にハンバート・ハンバートの息づかいを感じるのは評者だけだろうか。主人公のフョードルは、蝶と詩作を好み、チェス・プロブレム好き、ベルリンにいたのも同時代ということで、主人公と作者を同一視しないよう、「英語版への序文」で作者ナボコフはわざわざ注意している。とすれば、後年、アメリカに渡ってから描かれることになる『ロリータ』の主人公、あのハンバートはヨーロッパ時代、こんなところにひっそりと隠れ住んでいたのである
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by abraxasm | 2010-06-13 17:43 | 書評

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