闇の奧

「ポルトガル語にsaudade(サウダーデ)という美しい言葉がある。この言葉は他国語には訳せない。心象の中に、風景の中に、誰か大切な人が、物がない。不在が、淋しさと憧れ、悲しみをかきたてる。と同時に、それが喜びともなる。えもいわれぬ虚の感情……。」

かつて三上隆という気鋭の民族学者がいた。蝶と矮人族(ネグリト)を追い続け、敗戦の年、ボルネオのジャングルで消息を絶った。語り手の父は三上の旧友として捜索団を組織し自らボルネオに渡るも、目的を果たすことなく病没する。息子である語り手は、父の意志を継ぐべく、父の遺した手紙、捜索団の一員だった出水(和歌山カレー毒物事件の被害者)の遺したノート、その他の資料をもとに、北ボルネオ最奧部における三上隆捜索団の旅、和歌山大塔山系における小人村探しの探検をレポートに書く。最後には語り手自身がチベットに潜入し、三上隆の影を追う。熊野、ボルネオ、チベットを舞台に、異世界と現実世界を往還する秘境小説である。

実在の人物、史実を素材に創作された架空の物語。それも、どこまでが真実で、どこまでが創作なのか、虚実の境界が限りなくぼかされ、つかみがたい。それでいながら、とびっきり面白い。作者は辻原登。その語り口の巧さには定評がある。今回作家がその素材としたのは、伝説のナチュラリスト鹿野忠雄。巻末に参考文献が揚げられているのだから、ネタバレの誹りを受ける心配はないだろう。この若くして北ボルネオで消息を絶った稀有な探検家のその後の消息を追い求める探索行が、小説の主題である。

題名が『闇の奧』となっていることからも分かるように、先行する文学作品を幾重にも織り込んだ間テクスト性の強い作品となっている。題名は、もちろんコンラッドの同名小説(の邦題)から拝借している。ジャングルの奧に君臨する白人の独裁者を追って、アフリカの奥地に向かう男の話は、オーソン・ウェルズが映画化を試みて果たせず、フランシス・フォード・コッポラによって、舞台をベルギー領コンゴから戦時下のヴェトナムに移すことで映画化された。言わずと知れた『地獄の黙示録』である。強大な軍事力を持つ覇権国家側の人間が、圧政下にある現地の部族民に同化しつつ生きるという主題を共有する点でこの二作はつながる。

さらに、ナボコフの『賜物』との関係がある。ナチュラリストで探検家でもある蝶の蒐集家が、蝶を追って中央アジアに出かけ消息を絶つというのが、『賜物』の第二章で語られる主人公の父の話だ。作家志望の息子は、父の遺した資料をもとにその伝記を執筆することで、父の生涯に迫ろうとするのだが、書き進めるうちに息子はまるで父になりきって書くようになる。これはそのまま『闇の奧』の設定に重なる。一つのテクストの中に文体もジャンルも異にする複数のテクストが展開する『賜物』という複雑な構成を持つ小説を下敷きに、辻原はこれを書いたにちがいない。第五章「沈黙交易」のエピグラフにナボコフ『賜物』の一節が引用されている。作者からの挨拶であろう。

題材によって、自在に文体を使い分けるのが、この作家の持ち味だが、今回のそれは、久生十蘭や小栗虫太郎の魔境小説を想い出させる男性的な文体である。小栗虫太郎の『人外魔境』シリーズは、日本人探検家が人跡未踏の地を探検し、有尾人やら水棲人を追うという荒唐無稽を絵で描いたようなストーリーを、独特の衒学趣味(ペダントリー)をちらつかせながらぐいぐいと読者を引っぱっていく躰のものだったが、辻原のこれも矮人族(ネグリト)が棲むという幻の集落を探して、熊野やボルネオ、チベットの秘境に男たちが次々と挑む話である。何が男たちをそうまでかきたてるのか。それが冒頭に引いたサウダーデ。作家の言葉を借りるなら、「胸がひりつくようななつかしさ、いてもたってもいられなくなるようなノスタルジア」とでもいうべき「何か鋭い情緒に突き動かされて」のことなのだろう。

21世紀のこの時代に小人の話か、と思われるむきもあるかも知れないが、そこは、辻原。2004年にインドネシア東部で発見された新種の人類「ホモ・フロシエンシス」の骨という物証を提示する。この骨の持ち主は大人なのに身長1メートル。つまり小人。これに「和歌山毒物カレー事件」、ダライ・ラマのチベット脱出という実際の出来事を絡ませてストーリーを紡いでいく手腕はお見事としか言いようがない。

その他にも、ニールス・ルーネベルクの『秘密の救世主』という異端神学書や、数年前発見され話題を集めた『ユダの福音書』、サリンジャーの『笑い男』といった、読者をして立ち止まらせ、考え込ませる鍵がさり気なく鏤められ、本好きにはたまらない仕掛けに満ちている。いろいろ調べて「『秘密の救世主』という本について言及しているもの」というのが、ボルヘスの『伝奇集』の中の一篇であることは分かった。ただ、その「ユダについての三つの解釈」の中に「イエスは妻マリアの肉体の中心部を、イタリアの秋の水仙と呼んだ」という記述は、どこにもなく、どうやら作家の悪戯に引っかかったらしい。それとも、また別のテクストの中に隠されているのだろうか。どこまでも読者を闇ならぬテクストの奧に迷い込ませるたくらみに満ちた一冊である。
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by abraxasm | 2010-05-30 12:29 | 書評

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