火山の下

読んだことはないのに、著者と題名が記憶に残っている本というものがある。どこかで目にして興味を持ったものの、手近なところに見つからないので、読まずにきてしまった本。マルカム・ラウリーの『火山の下』も、そういう本である。ずいぶん前に翻訳されてはいるのだが、絶版で古書価格が高騰し、読むに読めない状態が続いていた。それが今回白水社から新訳で出た。

小説の概要は、カバー裏にある文章が簡潔で要を得ている。「ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。一九三八年十一月の(死者の日)の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。しかし領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。」

章ごとに視点人物が交代するところや、長篇小説であるのにたった一日の出来事を描いたものである点、中心となる人物が二人の男性と一人の女性である点、舞台となる町を人物が移動することで物語が展開している点、ダンテの『神曲』「地獄篇」やセルバンテスの『ドン・キホーテ』ほか古典や先行するテクストに依拠した構成等々、ジョイスの『ユリシーズ』の影響下にあることは誰の目にも明らかである。

三人称限定視点で語り出されながら、会話の最中に話者の目に映る眼前の光景の描写やそこから引き起こされる連想、追想が次々と挿入され、時空を跨ぎ越えてどこまでも延々と続いていく文体は「意識の流れ」の手法をグロテスクなまでに誇張したもので、特筆すべきは、アルコール中毒患者である領事の視点で描かれる章の叙述である。視点人物が酒浸りという設定は、調べればほかにもあるのだろうが、ここまで精緻に記述された作品を他に知らない。突然の意識の断絶。さらにまた突然の覚醒。時間感覚の麻痺。幻聴や幻視のリアルな描写。中でも、壁の染みや傷跡が昆虫や芋虫に変化し蠢く様子の描写は読んでいて本当に怖くなる。評者も酒は好きな方だが、少し酒量をひかえようかと考えたくらいだ。

領事の鬱屈は、どうやら戦争中のドイツ軍捕虜の扱いをめぐる毀誉褒貶にあるらしいが、コンラッドの『ロード・ジム』の自己懲罰を真似たのか、人の行きたがらない任地を経巡った最後が国交の途絶したメキシコであった。帰国要請に従わず任地に留まった後は、異端神学やら錬金術関連の書籍を集め、本を書くと言いながら酒浸りの毎日である。屈折しているのは領事ばかりではない。弟のヒューもスペイン内戦の義勇軍に共感を抱きながら、それを余所目に兄の妻と一緒にいることに幸福感を感じている自分を内心で恥じている。

自分自身に対して自分自身が「諾」と言えない、流行りの言葉で言うなら自己肯定感を持てない兄弟の造型は、作家自身をモデルにしたものであろう。若い頃の自分をヒューに、現在の自分を領事に投影していると見ることもできる。そういう意味ではアルコール中毒患者であった作家の自伝的小説とも言える。ナチスの台頭、スペイン内戦という時代を背景に、理想を胸に抱きながら挫折してしまったインテリの自己韜晦を、異国情緒溢れるメキシコの風景の中に、酔いどれの見た夢幻劇として描いた作品と括ることができよう。

「意識の流れ」や間テクスト性といった技法、構造もさることながら、読後に感じるのは、濃厚かつ芳醇な文学性である。遠くから聞こえる祭のざわめき、突然の雷雨、谷間から吹き上がる雨上がりの爽やかな風、といった叙情味を帯びた筆触。死者の日の骸骨、尻に7という数字の焼き印のある馬、ドミノを啄む鶏を連れた老婆、という宿命を暗示させる表象の多用。領事の演じる道化ぶりが醸し出すバロックの祝祭劇にも通じるグロテスクなユーモア。渇を癒すという言葉どおり、近頃、これほどまでに小説を読む喜びを感じたことがない。表紙カバーを飾るディエゴ・リベラの絵さながらに、目眩くような読書体験が読者を待っている。
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by abraxasm | 2010-05-15 11:47 | 書評

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