『邪悪なものの鎮め方』 内田 樹

いやあ、あいかわらず深いわ。読んでいて冷や汗が出ました。
この人の書くものには、常々教えられることが多いと感じてきたけど、今回は、かなり手厳しくやっつけられた気がします。

ブログに書きつづった雑多な内容の文章の中から、一つの主題としてまとめられそうなものを選び出し一冊に編んだもの。このあたり編集者のセンスの良さが感じられる。もっとも、題名は凄い!の一語に尽きるけれど。

「邪悪なもの」とは何か。とりあえず「どうしたらいいか分からないけど、何かしないと大変なことになる状況」との遭遇であると考えておけばいいだろう。自殺でも地震でも、なんでもいい。個人レベルでも国家レベルでもそういう状況というのは常に存在する。そういう事態に直面したとき、適切にふるまうことができる手立てについて考えた本である。

で、自分としては、何に一番感心したかというと、「自分自身にかけた呪い」は恐ろしいな、ということである。呪いのわら人形の話ではない。自分の話で恐縮だが、年少の頃に教わった「個人主義」という考え方と、職業に就いてから知らず知らず身についた労働者意識というのが、自分自身にかけた呪いだったということ。

たしかに、自分の仕事以外には手を出さないことを原則として生きてきたし、何かことが起きれば責任の所在を明らかにすることで、事態の出来は自分ではない誰か他者の所為であるという言い訳を探してきた。これは、「子ども」であることの証明らしい。

内田によれば「システム」に対して、「被害者・受苦者」のポジションを無意識的に先取するものを「子ども」と呼ぶ。システムクラッシュに、「責任者出てこい!」と叫ぶ輩のことだ。世の中は不条理なもので、そこに秩序だったものなどない。それなのに、きちんとしたシステムがあり、誰かがそれをコントロールしているという考え方は父権性イデオロギーというものである。

「こだわり・プライド・被害者意識」というのは、統合失調症の前駆症状であるという。病というのはある状態に居着くことをいうらしいが、これらの三つはどれもある状態に居着くこと(定型性)を意味している。

<「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、その後、どのような救済措置によっても、自助努力によっても「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、そこなわれたことを繰り返し証明する義務を負うことになる>

<人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつど都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。>

目からウロコとは、このことだ。「定型性」に固執する状態というのは、健康的でないらしい。自分もそうだが、原則を持つ人というのは、しっかりした人のようにいわれている。こだわりがあるというのは誉め言葉と聞いてきた。

しかし、問題が起きるたびに「責任者出てこい」と言いつのったり、落ちているゴミを拾うのは自分の仕事ではないと見過ごしたりする人ばかりが周りにいたら、その世界はずいぶん住みにくいことだろう。そういう人たちは、そうすることで、システムの不具合を証明しているわけで、突きつめればシステムクラッシュが起きることで自分の正しさを証明しようとしているのだ。そう言われると、心の奥底にそんな気分があったことを認めたくなる。これが、自分自身にかけていた呪いだったのか。

自分が自分に課していた原則の妥当性が揺らぐことで、世界を見る目も自分を見る目も少し変わってくる。この経験は何やら晴れやかな気分だ。中禅寺秋彦に「憑き物」落としをしてもらったような気分である。なるほどタイトルは嘘ではなかったなと、あらためて感じ入った次第である。
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by abraxasm | 2010-02-27 11:46 | 書評

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