書かれる手

いつもの堀江敏幸と思って読むと裏切られる。巻頭に置かれた表題作「書かれる手-マルグリット・ユルスナール論」からは、読者を緩やかに作品世界に誘うやさしさのようなものがまったくと言っていいほど感じられない。生硬で観念的な漢語の多い文体に意表をつかれる読者もいるだろう。それもそのはず。この文章が雑誌に発表されたのは1987年。大学に提出した卒業論文に手を入れたもので、事実上の処女作である。そうと知った上で読むと、この作家の早熟ぶりがよく分かる。これが卒論とは。

「手持ちの音や言葉が消失し、見たことも聞いたこともない向こう側(4字に傍点)から得体の知れない何かが勝手に降下し、日常を揺り動かす。震度が増し、立っていられなくなったら、歓喜してそれに身を委ねればよい。問われるのは、その揺れに遭遇するまでいかに身を持し、高次へ高次へと、なけなしの自分を支え続けていくことだ」

自分の手が、まるで自分の物でないかのように見える不思議な経験を著した文章がヴァレリーやリルケの書いた物の中に残っている。それを援用しつつ、芸術、或いは芸術家というものの奇蹟的な領域について論じたのが「書かれる手-マルグリット・ユルスナール論」である。ヴァレリ-やリルケ、ユルスナール、それにソンタグまで引用した上で、作家が書きとめておきたかったのは、彼らのではなく、自らが芸術の世界に参入することへの意思表明ではなかったか。

ある種の音楽家や詩人には忘我の裡に優れた芸術表現を成し遂げる瞬間が去来することがある。自分というものが消え去り、自分の手が書くのではなく、いわば何ものかによって「書かれる」瞬間の訪れである。「自意識とは、自分が自分に対して一瞬だけずれを持つということである」という。つまり、真の芸術が生まれる瞬間というのは、そのずれが消え、自分が自分とぴったり重なって何のずれもない幸福な状態を指している。

この自分が書くのではなく、「書かれる自分」という、いわば極北ともいうべき視座を、物書きになる前に既に獲得しているということは、文学に携わる者にとってある意味不幸なことではないのか。解説の中で三浦雅士が「堀江敏幸は、不幸の縁に、こまかい砂粒のような幸福の輝きをまぶしてゆく、いや見出してゆくのである」と書くのは、そうした堀江の資質を見抜いてのことであろう。

「私の関心は、おのれを語ることの困難と闘い、「はざま」への、隘路へ、言葉と言葉、他者と他者とのあいだをすり抜けていくか細い線への、つまり本質に触れそうで触れない漸近線への憧憬を失わない書き手に、一貫して向けられていたことがぼんやりと見えてくる。」(あとがき)

須賀敦子、長谷川四郎、島尾敏雄、田中小実昌、山川方夫…。発表年代も場所も異なる十二の作家論は、時間軸を入れ替え、ある意図を持って並べられている。作家はこれを自らの診療記録と呼ぶ。ずれの存在を自覚しながら自分に迫ろうというのは、あらかじめ失われたものを追い求めるような試みである。もしそう呼んでよければ一種の疾病のようなものかもしれない。「ずれ」を意識しながら、ずれのない完璧な瞬間という奇蹟を、書くという行為を継続することで待ちつづける、その過程の記録である。私淑する作家について語ることが、そのまま自己を語ることに繋がっていく。読者は手際よく布置された十二の作家論を読むことで、河の流れさながらに一貫しつつ変化してゆく作家の軌跡を見取ることができる。

本書は、2000年に出版された同名の単行本の文庫版である。文庫には解説が付くというのがこの国の慣わし。解説は先にも書いた通り三浦雅士。この気鋭の批評家と堀江敏幸との幸福な出会いについて読むことができるのは、何よりもうれしい文庫版の特典である。堀江敏幸の卒論にも驚いたが、三浦雅士の早熟の天才ぶりにも驚かされること請け合い。二人の愛読者はもとより、単行本で既に読まれた読者にも、文庫版の作者あとがきと解説を併せ読むという幸運を取り逃すことのなきよう、ひとこと言い添えておきたい。
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by abraxasm | 2010-01-31 14:29 | 書評

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