ユリシーズ註解

e0110713_8181767.jpg本が切れたので、書棚に置いてあった『ユリシーズ註解』を読みはじめた。以前、同じ著者の『『ユリシーズ』案内-丸谷才一・誤訳の研究』を読んで感心し、某サイトに、その書評を投稿したことがあるのだが、著者がそれを読んでメールをくれた。その後しばらくして、新刊が出たことを告げるメールがとどいた。それが、この『ユリシーズ註解』である。せっかくの紹介なので、早速書店に注文したのだった。もっとも、ものがものだけに時間の余裕のあるときでないと手にとる気構えができない。それで、紹介が遅れた。

体裁は集英社版『ユリシーズ』と同じ版型で、厚さもほぼ同じ。洋書と同じ横書きであるところはちがうが、書棚に並べるとうまく収まる。あまり気にする人はいないかもしれないが、本好きにとってこうした配慮は嬉しいものだ。で、中身の方だが、相変わらず丸谷氏の訳については手厳しい。原文の一部を引用しながら、それに註解を加えていくというスタイルだから、翻訳に問題があれば触れないわけにはいかない。

どうしてかはしらないが、明らかに誤訳だろうと思えるところは、丸谷訳も柳瀬訳もよく似たまちがいをおかしている。著者によれば、それは原典や現物にあたることなく、ギフォードの註解を孫引きしているからだとにべもない。柳瀬訳は完訳でないので、丸谷氏が槍玉に挙がるのだが、丸谷氏はヨーロッパの生活を知らないからだ、と批判されることが多い。

たとえば、barは、日本語では誰でも酒場と思うから、丸谷氏は「酒場」と自動的に翻訳するが、イギリス(アイルランド)のbarは、立ち飲みの形式で、珈琲やランチも供する軽食堂であることは、一度や二度、ヨーロッパを旅したことがある人なら誰でも知っている事実である。映画にも出てくるし、ヨーロッパ暮らしが長くなくても分かることだ。著者が言いたいのは、手を抜かずに、きちんと調べてから最も適切な言葉を吟味して使えと言うことだろう。

カトリックのミサ典礼をはじめ、著者は実に丁寧に読者を手引きしてくれる。丸谷氏が聖杯と聖杯餐を混同しているといった点は実際の儀式を知らないと難しかろう。ただ、その場合でも専門家に尋ねるといった便法もあるわけで、その手続きさえ怠らなければ誤訳は減ると思う。ただ、せっかく改訳したところが、逆に誤っているという指摘もあって、翻訳の難しさを改めてうかがわせる。

閑話休題。ナボコフは読書は再読だといっているが、まったくその通りで、初読時はわずらわしく思えた脚注が、再読時には物足りなくなっている。『ユリシーズ註解』は、その渇を癒してくれるありがたい一巻である。実際、微に入り細を穿ち、かゆいところに手が届くその詳細な注は、『ユリシーズ』の世界を数層倍に広げてくれるのだ。

一例を挙げるなら、ブルームが肉屋から豚の腎臓を買う場面で、肉屋がそれを包むのに使っていた紙からユダヤ人のパレスチナ入植の歴史が説きおこされるところなどは圧巻としか言いようがない。アグダット・ネタイームという入植者が購入した土地に本人に変わって木を植える仕事をする会社の広告に記載されている住所を確かめるため、エルサレムにあるシオニスト中央文書館まで出向いているというから、筆者の気合いの入れ方は尋常ではない。

実際、当時のダブリンの生活実態を知らずに翻訳すると、carが、自動車なのか荷馬車なのかが分からないようなことが起こる。当時は、まだ自動車はめずらしかったからだ。筆者は関連する書物や写真でどの会社が自動車を使用していたかまで調べている。丸谷氏には気の毒だが、こういう篤実な研究者がこの国にいることをわれわれ読者は感謝しなければならない。

まだ、第6挿話までしか読んでいない。一挿話ずつ、丸谷他訳の『ユリシーズ』と照らし合わせながら読んでいくので、はかがいかない。しかし、まあ、そこが愉しいのだ。一語一句ゆるがせにしないというのは、ジョイスの姿勢でもあったわけで、こういう先達がいてくれるおかげで日本の読者は世界中のジョイス読みの中でも幸せと言えるかもしれない。
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by abraxasm | 2009-09-27 12:56 | 書評

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