ハザール事典

ハザールは、もと遊牧民の国家。カガンと呼ばれる君主をいただき、7世紀から10世紀、カスピ海と黒海にはさまれる地方一帯に定住したといわれている。10世紀後半にルーシ(ロシアの古名)によって滅ぼされた一国家が歴史に名を残しているには理由がある。実はこのハザール、滅亡する直前に固有の古代信仰を捨て、ユダヤ教に改宗している。ユダヤ民族でない国家がユダヤ教を奉ずるのは他に例がない。ユダヤ教改宗以前にイスラム教に改宗したという説もあり、改宗に至る経緯が謎を呼び、現代に至るも論議がつきない。

そのハザール改宗という史実をネタにして『ハザール事典』という一大偽書をでっち上げたのが、セルビア生まれの作家ミロラド・パヴィチ。実は『ハザール事典』という書物は17世紀に一度出版されている、というのがパヴィチの設定。初版一部は毒物をしみ込ませたインクで印刷されていたので、読んだ者は次々と死に見舞われるという『薔薇の名前』を地でいく惨劇。世に出た版も教義問答を含むことから禁書とした宗派もあり、原書は散逸してしまう。わずかに残されたテクストの断片を収集し、新たに項目を立て、事典の体裁で出版されたのがこの第二版『ハザール事典』というわけである。

それでは『ハザール事典』には何が書かれていたのだろうか。すべては、君主カガンが見た一夜の夢にはじまる。不思議な夢の解釈に悩んだ君主は、夢を見事に解いてみせた学者の信じる宗教に国を挙げて改宗するという褒美をつけ、夢占いに長けた学者三人を各地から呼び集めた。招聘に応じた学者はイスラムの行者、ユダヤ教のラビ、キリスト教の修道僧の三人である。

これには元ネタと考えられる話がある。林達夫によれば、ボッカチオの『デカメロン』、レッシングの『賢者ナータン』ほか、それ以前に幾つもの原典を持つ『三つの指輪の物語』がそれだ。カリフがユダヤ教のラビを陥れるため、父の遺品の指輪を相続するのは三兄弟の誰であるかを言わせようとする話である。三人のうち誰と答えても、カリフの奸計に落ちるところをラビは上手く言い抜けて助かるという話だ。無論三兄弟とは、同じ神を父と仰ぐ、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教を指している。君主が賢者に三者の優劣を尋ねるという設定は両者に共通する。

原典となる話には、宗教における寛容という寓意があるのだが、ポスト・モダンの作家であるパヴィチは作者の特権を行使しない。『ハザール事典』は、三つの宗教の立場から書かれた三冊の書物の合本という体裁を持っている。キリスト教修道僧の話を書きとめた『赤色の書』には、当然のことながらキリスト教に有利な解釈が書かれている。それは残り二つの書物でも同じで、真相は『薮の中』というわけだ。芥川の原作を映画化した『羅生門』でもそうだったが、異なる世界を一つの平面で並べて解釈するためには、三つの世界を往還することのできる狂言回し役が必要になる。言語も宗教も異なる三つの世界をつなぐのが<夢の狩人>である。

ハザールには<夢の狩人>と呼ばれる異能の人々がいて、他人の夢に入り込んではその夢を見ることができたという。星の観察から天文学が生まれたように、そうして見た夢の観察記録を網羅した大辞典を創造しようというのがハザールの古代宗教であった。このあたり、フロイト学派を意識しているのかもしれない。17世紀に入り、ハザール論争の中にその鍵を発見しようと、三つの宗教を信じる国からハザール学の権威が現れる。どうやら三人は互いの夢のなかに出入りできるようなのだ。

ユーゴスラビアからセルビアへと国家体制が変わるたびに、そこに住む人々は人種や宗教、イデオロギーの対立に翻弄され続けて来た。夢を見ることは誰にもできるが、夢から覚めたら現実が待っている。現実が夢より良いものとは限らない。だったら、その現実からはどうしたら覚めることができるのだろう。それには意識のある状態のままの覚醒しかない。意外にそれが、一見読物としての面白さに徹したように見えるこの作品に隠された作者のメッセージなのかもしれない。

千夜一夜物語を想わせる入れ子状の構造を駆使し、カガンや王女アテー、それに三人の学者という<ハザール論争>の当事者、その事跡を書き記した年代記作者たち、そして<夢の狩人>の系譜を引く、いわばハザール学の権威たちが、論争当時、初版『ハザール事典』が出版された17世紀、そして現代という三つの時代を「生まれかわり」や「夢のお告げ」によって自在に往き来する物語を創り上げたのは作者の構想力の賜物である。

『ハザール事典』という「偽書」を、実在の歴史と綯い交ぜにすることで、まるで現実に存在する書物のように仕立て上げた手腕は並々ならぬものがある。世界を「一冊の本」として創造することは、マラルメをはじめ多くの先達が夢みてきた。この第二版『ハザール事典』一巻は、その夢の神殿に捧げる新たな貢ぎ物としての資格を十二分に持っている。ボルヘスやウンベルト・エーコが創造した知的迷宮の伽藍を彷徨い歩くことが好きな読者には何をおいてもお勧めする究極の一冊。ただし、『ハザール事典』には「男性版」と「女性版」があり、その内容は一部異なる。作者はそれぞれの版を読んだ男女が語り合う姿を夢想している。読書という孤独な作業がそれによって報いられるように、と。
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by abraxasm | 2009-08-09 18:01 | 書評

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