e0110713_09522621.jpg『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の二作を読んでから読むことを勧める書評があった。訳者あとがきにも、同様のことが書かれているが、それはネタバレを恐れての注意。二作品を読んでいなくてもこれ一作で、十分楽しめるので、わざわざ旧作を掘り返して読む必要はない。ただ、これを読むと、前の二作を未読の読者は、おそらく読みたくなると思うので、読めるなら先に読んでおくといいだろう。

数あるル・カレのスパイ小説の主人公として最も有名なのが、ジョージ・スマイリー。眼鏡をかけた小太りの風采の上がらない中年男だ。ただし、現場から寄せられる真贋の程の分からぬ数多の情報を重ね合わせ、比較し、齟齬や遺漏を想像力を駆使して精査し、仮説を立て、読み解いていく能力はずば抜けている。スパイにも色々いるが、スマイリーは何よりも知性派で、冷静にして沈着。仲間や部下からの信頼も厚い。敵にすると厄介な相手だ。

そのスマイリーが息子のように接する若者がピーター・ギラム。もちろん、先に挙げた二作にも登場する。ただし、それほど重要な仕事はしていない。サーカスと呼ばれる情報部の中に保存されている資料を、そこを追われ、自由に見ることのできないスマイリーのために盗み出してきたり、スマイリーのための運転手をつとめたりする、要は手足となって働く、最も信頼のおける助手という立場。

『寒い国から帰ってきたスパイ』の主人公アレック・リーマスの友人で、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の中では、ジョージの片腕として、サーカスに潜入中の二重スパイの割り出しを手伝ったピーター。他の重要なメンバーと比べると歳が若く、今までそれほど重視されてこなかった。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を原作とする映画『裏切りのサーカス』でピーターを演じたベネディクト・カンバーバッチの人気にあやかった訳でもないだろうが、ここにきて一気に主役に躍り出た。

今は退職し、ブルターニュで年金生活を送っているピーターにサーカスから呼び出しがかかる。本来ならジョージに声がかかるはずのところ、行方がわからないためピーターの出番となった。かつて彼らが関わった作戦の犠牲者となったスパイの遺児が、情報部相手に訴訟を起こした。当時を知る関係者としての協力要請だが、平たく言えば尋問である。作戦というのは、ベルリンが壁で分断されていた時代、東独の情報部(シュタージ)に属する大物スパイを二重スパイとして使う案件で『寒い国から帰ってきたスパイ』はそれを扱っている。

当時、それを担当していたのがアレック・リーマス。原告はリーマスの息子。サーカスの判断の誤りが父親を殺したというのが、その理由だ。保管されているはずの大量の資料がサーカスから持ち出されており、裁判に勝つためには、まずその資料探しから始めねばならなかった。ピーターには資料の無断持ち出し容疑がかかっていた。はじめは渋ったピーターも徐々に重い口を開いてゆく。それは忘れようにも忘れられない苦い思い出だった。かつて愛した女性の死がからんでいたからだ。

こうして、回想される過去の出来事と、自身のスパイとしての在り方を振り返る現在が交互に語られる。複数の時間にまたがる回想視点と現在時の語りが絶妙に絡み合い、スパイという特殊な任務に就いた男女の通常でない心理や情愛の葛藤が描き出される。リーマスやその恋人が操り人形だとしたら、それを動かしていたのはジョージだ。そしてピーターは人形に結びつけられた糸だった。これは『寒い国から帰ってきたスパイ』の世界を、当時、事態を裏で動かしていた立場の者の視点で書き表した小説だ。
目的のためには手段を選ばず、時と場合によっては相手が友人であっても素知らぬ顔で足元をすくい、持てる魅力を最大限に駆使して純情な女性をスパイの愛人に仕立て上げる。いったい何のために、という問いは使命の前に押し殺してきた。それでも、胸の中には悔いや憾みがいつまでも残っている。尋問に用意された机の上に山のように積み上げられた資料が老いたスパイの心をえぐり、回想視点で語られる若いピーターの葛藤が生々しく甦る。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で、「もぐら」と呼ばれる二重スパイによって散々な目にあわされたサーカスのその後が描かれているのも興味深い。かつてのサーカスの記憶を手繰り寄せるピーターの視線が、現場を離れた者にありがちな懐旧的視点によって語られるのも共感できるところ。旧世代の目には今の情報部が形式主義に走り過ぎているように見える。隠された書類を見つけようと部屋中を引っ掻き回しながら、廊下に置かれた自転車を見逃すのがそれだ。情報化社会に慣れた今のスパイには紙の資料をどこに隠すかといったアナログな視点がそもそも欠けているのだ。

過去の作品を素材にとり、再度別のアングルから描き直すとともに、歳をとった当人に若い頃の自分を振り返らせる試みが功を奏している。過去のしがらみから解き放たれることのない老スパイの追想には英国情報部に籍を置いていた作者の心境が反映されているのかも、と考えたくなる。細々とした報告書やメモを通して、隠された事実を前面に引き出してくるのがル・カレの真骨頂。報告書の客観j的な叙述と裏腹に、書き手のみが知る、語られることのなかった真実が赤裸々に告白される、その対比が鮮やかだ。余韻の残る終わり方にも好感が持てる。

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# by abraxasm | 2017-12-12 09:52 | 書評
e0110713_22084264.jpgアイルランドを舞台にした「ツルゲーネフを読む声」と、イタリアを舞台にした「ウンブリアのわたしの家」という中篇小説が二篇収められている。どちらも主人公が女性。『ふたつの人生』という書名は、この二人の人生を意味している。作者のウィリアム・トレヴァーは短篇小説の名手として知られている。短篇では、いろいろな人々の人生のある局面を鮮やかな手際ですくい取るその切り口と人間観察の鋭さにいつも感心させられるが、中篇には、また別の魅力がある。

かなり長い時間をかけて一人の人間の人生を追うことになるので、単調にならないように構成が工夫されている。「ツルゲーネフを読む声」では、小説内に二つの時間軸が設定されている。一つは、主人公に結婚話が舞い込むところから。もう一つは、それから四十年たって、施設で暮らしていた老嬢が、もと居た家に帰ることになり、夫が迎えに来るところから始まる。

読めば分かることなので明かしてしまうが、老嬢は主人公メアリー・ルイーズと同一人物。つまり二つの時間は過去と現在を表している。同時進行する二つの話を読み比べながら、読者はメアリー・ルイーズが何故、精神病院に入ることになったのか、その理由をまだ若かったころのメアリー・ルイーズの物語から探ろうとするにちがいない。それが、作家が読者という、長い小説に気乗り薄な馬に、先を急がせるために鼻先にぶら下げた人参である。

メアリー・ルイーズの夫エルマーは悪い人ではない。妻を愛しているし、勤勉でその暮らしぶりも質素である。ただ、かつての名家も今は落ち目。同居する二人の姉は未婚で跡継ぎが生まれなければ家は遠縁の手に渡ることになる。家柄にプライドを持つ姉たちは農家の娘との結婚を認めたがらず、事あるごとに嫁に辛くあたる。エルマーは二人の姉に頭が上がらず、充分に妻を守ってやれない。メアリー・ルイーズにとって店の休みの日曜日、自転車に乗って実家に帰ることだけが心の慰めだった。

結婚することは別の家族の一員になること。町で商売をする家と農場を営む家とは世界がちがう。新しい世界に受け入れられず、自らも溶け込むことができないメアリー・ルイーズが見つけた自分だけの世界というのが、いとこのロバートが朗読してくれたツルゲーネフの小説の世界だった。ようやく心が通じる相手を見つけたメアリー・ルイーズを更なる不幸が見舞う。もともと病弱だったロバートの早過ぎる死だ。

どんどん自分の世界に入り込んでゆくメアリー・ルイーズと、その隠された秘密を知ることのない周りの人々との間に目に見えない高い塀のような物が積み上げられていく。塀の内側にはメアリー・ルイーズの愛する物が集まり、聞こえて来るのはツルゲーネフの小説世界。人物の名はみなロシア風だ。塀の外では現実のアイルランドの生活が営まれる。小説の世界の中では主人公の奇矯な振舞いの理由を知る者はいない。ただ、読者は知っている。この登場人物は知らないが、読者は知っているというところがミソだ。

メアリー・ルイーズが創り上げた世界は完全な虚構の世界である。傷つきやすい柔らかな内部に入り込んだ異物を、分泌物で包むことで、自分が傷つかないような球状に作り上げてゆく真珠貝のように、メアリー・ルイーズは精神病院に入ることで自分一人の世界を守り続けた。そして、病院を出た後は、現実の世界の中にそれを位置づけようと策略を巡らし、それを成功させるはず。虚構の中に人間の真実を描き出すことにかけて、作家ほど長けた人はいない。メアリー・ルイーズという人格は小説家の隠喩かもしれない。

「ウンブリアのわたしの家」は、ロマンス小説の作家が主人公。ひと口には言えない人生を送ってきたエミリー・デラハンティは五十六歳でイタリアのウンブリアに家を買う。ホテルに泊まれない旅行者に宿を提供するペンションのようなものだ。そして、夜はロマンス小説を書いている。そのエミリーがミラノに出かけた帰り、列車内で爆弾テロに遭う。多くの死傷者が出た。彼女も怪我をしたが、幸いなことに助かった。ただ、書きかけていた小説は頓挫した。あれほどあふれ出ていた言葉が出なくなってしまったのだ。

彼女は同じ事件で傷ついた三人の客を自分の家に招待する。退役した将軍は妻と娘とその婚約者をなくした。オトマーというドイツ人の青年は片腕と恋人を失った。エイミーは両親と兄と言葉を失っていた。悲劇に見舞われた者同士が寄り添い、時間をかけて回復していこうと思ったのだ。そうした中、孤児となったエイミーの叔父というアメリカ人学者リバースミスがエミリーの家にやってくる。

ロマンス小説の作家である主人公は他人の感情や思考を読み取ることができると思い込んでいる。その過剰な思い入れは、他人の事情を勝手に作り上げてしまう。そんなエミリーとリバースミスの実務的な気性とが真っ向からぶつかって起こすちぐはぐさが尋常でない。視点はエミリーに寄り添っているので、ややもすれば、エミリーの語ることを信じたくなるのだが、どこまでが彼女の想像で、どこからが真実なのか読者には知ることができない。もしかするとすべてが妄想かもしれないのだ。

なにしろ、彼女の頭の中ではテロ事件を起こした、まだ見つからない犯人はオトマーで、時限爆弾は恋人がイスラエルに持ち込む荷物の中にあったことになっている。この「信頼できない語り手」という方法を最大限に生かすことで、この小説は成り立っている。主人公の作家の口を通じて、小説がどのように書かれるかが詳しく語られるのだから、これはもしかしたらウィリアム・トレヴァーの創作方法と重なるのかも、と思いかけて、いやいや、その手に乗るものか、と思い直した。なにしろ、語り手は妄想を膨らませる名人なのだ。

トレヴァーが亡くなったと聞いた時、ああ、これでもう作品が書かれることはないのだなとがっかりしたものだが、未訳の作品がまだあるらしく、同じ訳者によって準備されているという。新作が読めないのが残念だが、また読めるのはありがたい。これからも楽しみに待ちたい。

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# by abraxasm | 2017-12-03 22:08 | 書評

『光の犬』松家仁之

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北海道の東部、サロマ湖や網走で知られる道東の小さな町、枝留(えだる)が舞台。そこに暮らす添島家三代の年代記である。その中には共に暮らす北海道犬も含まれる。ただ、犬の方は血筋は一つではない。一族が北海道に渡ったのは関東大震災に見舞われた夫婦に、よねの師匠の産科医が枝留行きを勧めたからだった。枝留は薄荷の輸出が盛んだった。夫の眞蔵は枝留薄荷という会社の役員、よねは家の一部を使って産院を開く。


よねは一枝、眞二郎、美恵子、智世の四人の子を生んだ。眞二郎は枝留薄荷に勤めていた登代子と結婚し、家を継いだ。二女の恵美子は離婚して家に戻ったが、二人の姉妹は結婚しなかった。三人姉妹は棟割長屋のように改築した実家で暮らす。所帯は別だが、小姑が三人もいることになる。おまけに夫は始終姉妹の家を訪ねてしゃべってくるくせに家では仏頂面をしている。妻の登代子は次第に夫と口を利かなくなる。


添島家には歩と始の姉弟が生まれる。活発で聡明な姉と内向的な弟は外見はよく似ていても全くちがっていた。姉には枝留教会の牧師の子で同級生の一惟という友達ができる。絵と音楽という共通する才能もあって、同じ大学に通う話もあったが、歩が札幌にある大学を選んだことで、京都の神学部のある大学に通う一惟とは距離ができた。枝留に帰ったとき以外は手紙のやり取りが続く程度の関係だった。


目まぐるしく入れ替わる視点は、添島家の人間だけでなく一惟や始の妻と思える人物にも及び、語られる場面はいくつもの時点を行き来するので、いつ誰が語っているのかをいちいち確認するのに骨が折れる。こうまで煩雑な語りにする必要があるのだろうか。それだけではない。そこから先に広がることも、誰かの挿話とからまることもないエピソードが尻切れトンボのように撒き散らされ、まるで収拾がつかない。


たしかに現実はそうしたまとまりのない事実の総和で成り立っているのだが、一篇の小説としてはその中で完結していると思いたい。そのような作家的な配慮はあらかじめ想定されていないようだ。むしろ、参考文献が付されているので分かるが、物理学を研究する歩が講義で出会うニュートンやハッブルについてのエピソードや、よねの師匠である産科医の経験から生み出された練達の産婆術など、作家には書きたいことが多すぎるほどあったようだ。


しかし、小説としては、それまでのものより厚みを増していることもまちがいない。どちらかといえばスタイリッシュで、出てくる音楽や料理などへのこだわりが主人公の身辺に垣間見るのが松家仁之の持ち味だったが、それらを幾分か抑え、どこにでもある家族間の感情的なすれちがいや軋轢に重点を置いている。ファンにとっては目新しくもあるが、それが受け入れられるかどうかは賭けのようなものだ。


添島家の三人姉妹と登代子との顕わにされることのない闘争などは、日本の家族を書く上で、映画でも小説でもなじみの深い主題であり、さほど目新しいものではない。わざわざそれを持ち込んだのは、歩や始の人間形成にそれがどういう影響を与えたかの説明であろう。それにしては、多すぎるほどスペースが割かれている。その中でよねの逸話には添島という家族の根源が露呈されているようにも見え、ここだけは必要だったと思える。すべてはそこから始まっているのだ。


医学を志すほどの力を持ちながら、家庭の事情で産婆となった祖母は、自分のすべてをそれに賭けていた。家庭の主婦であるよりも他人の子を無事にとりあげることが自己実現の手段だった。夫はそれが不満で他所に女をつくり、家をないがしろにした。よねは自分の子にも時間を割くことがなかった、今でいえばキャリア・ウーマンの先駆けだったのだ。それが子どもたちに何らかの影響を与えたのかもしれない。


小説の主要なパートを受け持つのは歩である。将来を嘱望される職に就きながら、癌に見舞われ、三十歳で死んでしまう。誰にも愛される魅力的な女性で、小説の中で唯一主人公としての魅力を発する人物が、弟に看取られ早々と死んでしまう。どうにかならなかったのかと思うが、すべてはここに終焉するように書かれていたのだ。血縁とは何か。家族とは何か。人間が持つ家族という関係性を、いつも傍にいて知らぬ裡に批評しているのが犬に他ならない。北海道犬に血筋はあるが、それぞれの犬は独立した個であり、飼い主との関係を自ら作り出す。


歩にとっては始をはじめとする家族の誰よりも心を許せるのが犬のジロだった。何故、一人の男と結婚をしなければいけないのか。その必然性を信じることのできない歩は生涯結婚をしないことを決め、その思いを誰に語ることもなく、独り山に登って泣く。その時傍にいたのがジロだ。歩は自分の気持ちはジロにしか分からないと思ったから。愛してはいても、自分の本当の気持ちを家族や友人は理解できない。むしろ言葉を持たない犬の方が分かりあえる。この気持ちは、動物と暮らす者にはよく分かる。


連綿と続く家系というものを持ちながら、身近に暮らす人と人が分かりあえることは果たしてあるのかどうか、という根源的な問いが主題になっている。キリスト教の教義や、物理学、天文学と大きなものが持ち出されるが、それらはどれも役に立っているようには思えない。冬山で雛を育てるライチョウや、歩の生まれる時を知り、歩のピアノの音に耳を澄ます北海道犬の持つ能力に、人はとてもかなわないように思うのだ。このどうしようもない孤独を受け止め、日々を生き抜くためにこそ、人は犬や猫を必要とするのかもしれない。



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# by abraxasm | 2017-11-25 23:27 | 書評
e0110713_14332901.jpg三年前から音信のなかった父から突然電話がかかってきた。心臓の具合が悪く、手術をするという。急いで病院に駆けつけた息子に父は詫びた。事の起こりは、三年前に父のしたことだ。ガブリエルと同じ名前の父は最高裁で雄弁術を講義するコロンビアの名士である。ふだんは、デモステネスやキケロといったギリシアの古典にしか興味を示さないはずの父が、こともあろうに当時世評に上っていた一人息子が出したばかりの本を酷評したのだ。

主人公のガブリエルは三十代のジャーナリスト。父の友人で家族がらみのつきあいをしているザラという女性の話を本にした。『亡命に生きたある人生』は第二次世界大戦中にドイツから逃れ、コロンビアに移住したユダヤ人の人生を書いたものだ。ナチスのせいでドイツにいられなくなった一家はコロンビアで始めたホテル業が成功し、ホテル・ヌエバ・エウロペは、コロンビアの名士に限らず、ヨーロッパを離れた人々の社交場となっていた。

1930年代までは、コロンビアではナチスの信奉者も一般のドイツ人と変わることなく交際があった。ところが、1941年にアメリカがコロンビア政府に、枢軸国に協力関係にある人物の名簿を提出するようにと通告を下す。ブラック・リストと呼ばれるその名簿に載ることは、財産没収の上、収容所入りを意味する。ザラの父は免れたが、親しかった人の中にはひどい目にあった人もいた。

ガブリエルの本は、その当時の苦い記憶を呼び覚ますもので、思い出したくない人々にそれを思い出させる必要などない、というのが父の論点であった。売名のために、人の語りたくないことまで聞き出すことの是非を問うというのが建前だったが、息子はそれを鵜呑みにはできなかった。父は何かに怒っている。いったいあの本の何が父をあそこまで苛立たせたのか。

『密告者』という、この本は、息子が父の隠された秘密を暴き、その真実にたどり着く過程を書き記したドキュメント、という体裁を持つ小説である。現在と父の手術があった三年前、それに第二次世界大戦の時代、この三つの時代を行き来しながら話は進められる。話者のガブリエルは人の語りを聞き取って記事にするジャーナリスト。特徴的なのは、ザラの語る1940年代の話、手術後第二の人生を始めた父のお相手のアンへリーナという女性の話、父の親友エンリケの語る話、これらが長いモノローグになっていることだ。

人に思い出したくない過去があるように、国家にもできれば忘れてしまいたい過去がある。日本でいえば、朝鮮人慰安婦問題や、南京大虐殺、などがそれにあたる。歴史修正主義者は都合の悪い事実は無かったことにしてしまえば、後世の国民には知られないと考える。ところが、教育やマス・メディアを駆使して自国民は騙せても、相手の口には封ができない。その苛立ちがヘイト・スピーチやデモを生む。よく考えてみれば、かえって問題が顕在化するだけだというのに。

父親のやっているのがまさにそれだ。実は、父には隠しておきたい事実があった。当時父が漏らした言葉が原因となって親友のエンリケの一家が離散することになってしまったのだ。だから、ザラに当時の話をさせることにあれほどむきになったのだ。ところが、話はそれで終わらない。

手術が成功したことで、父は第二の人生を得た。生まれ変わるためには過去と向き合う必要があった。父はエンリケの住む町に向かい、そこから一人で車を運転して帰る途中、対向車線を走ってきたバスと衝突して死ぬ。何故、指に障碍のある父が危険な夜のドライブを思い立ったのか。そもそも、エンリケには会えたのかどうか。息子は、父親の真意を探り、その死が本当に事故なのか、それともバスの乗客をも巻き込んでの自殺だったのかを調べ始める。果たして、その結果は?

人には誰にも言えない過去が一つや二つはある。できればなかったことにしてしまいたい、そんな事実が。しかし、過去は変えることはできない。人間一人で生きているわけではない。過去は自分にだけあるわけではないからだ。自分の過去を変えようとしても相手が同意しない限り無理なのだ。相手が一人であると仮定しても難しい。ましてや相手が複数だったら、考えれば考えるほど過去の改変がいかに難しいかが分かるだろう。

それは個人の場合も国家の場合も変わりはない。謝ったら許してもらえるというのはこちらの思い込みでしかない。おそらく、胸のうちにどうしようもないわだかまりを呑みこんだままその後の人生を送るしかないのだろう。お前なんか消えてしまえばいいと思う相手の思いを知りつつ生きながらえることを望むならば。戦争で酷い目に遭って、生まれ変わったような気がしても、またぞろ同じ血が騒ぎだしているどこかの国のように、第二の人生などというのは、第一の人生でまちがいをしなかった人にだけ、用意されているものと思った方がよさそうだ。

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# by abraxasm | 2017-11-21 14:33 | 書評
e0110713_10235074.jpg<上・下巻併せて>

舐めるようにしゃぶりつくすように読んだ。それでも、作者がこれでもか、というくらい用意したお楽しみや仕掛けの万分の一も見つけてはいないだろう。それでは楽しめないではないか、と思うかもしれない。ちがうのだ。一度読めばそれで二度と手に取ることのない本がある。いや、そういう本の方が圧倒的に多い。筋を追うことが本を読むということなら、これはちがう。書かれた文字や言葉を、お気に入りの音楽や大好きな料理のように何度でも繰り返し味わいたくなる、そんな本だ。

九十歳を過ぎた男が、人生を通してたった一人愛した女との初めての出会いから、死を間近にした今に至るまでを回想した物語である。男の名はヴァン・ヴィーン。幾代かさかのぼれば先祖には公爵家を頂く名門の出で、愛するアーダは名目上は三つちがいの従妹にあたる。しかし、冒頭に付された家系図を信じるわけにはいかない。ヴァンの父ディーモンと、アーダの母マリーナは不倫関係にあり、ヴァンの本当の母は、マリーナの姉アクワではなく、マリーナその人であった。

兄と妹にあたる二人が、初めて会ったその時から精神的にも肉体的にも惹かれあい、睦み合うようになるのは、ある意味必然であった。アーディスと呼ばれる避暑地に立つ豪壮な邸宅を舞台に、十五歳と十二歳の男女が、他愛無い接触から性的な欲望へ、次第に高まりあう官能の焔に炙られ、両親や使用人の眼を避けながら、禁断の愛を貪りあう様が、楽園を思わす牧歌的な風景を背景に延々と繰り広げられるのが上巻、第一部である。

放蕩者の血を継ぐヴァンではあったが、肉体的には何人もの女と関係を持っても、愛するのはアーダ一人。ところが、アーダが他の男と関係を持つことは許せない。そのたびに相手と決闘騒ぎを起こしたり、アーダとの関係を断ったりする。二部以降は二人の紆余曲折する恋愛事情を追う。そこに、アーダの妹であるリュセットが絡む。少し歳の離れた妹は、姉と同じようにヴァンを愛するようになる。

と、こう書けばまるでロマンス。それもかなりどろどろしたロマンスのように思えるだろうが、作者はあのナボコフである。『アーダ』は『ロリータ』で成功し、大学を離れてスイスのホテル暮らしを始めてから書かれたナボコフ最大の長編小説である。経済的に安定し、自分の書きたいことを書きたいように書けるようになったわけだ。書き出しからトルストイの『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭を裏返しに引用するなど、これがメタ文学であることをばらしている。

プルーストの『失われた時を求めて』について何度でも言及しているように、好きな作家や小説をパスティーシュするのは勿論のこと、ドストエフスキーやフォークナーといった嫌いな作家や作品を揶揄ったり、誤訳の揚げ足取りをしたり、名前を勝手に変更したりとやりたい放題。挙句は自作の『ロリータ』をモデルにした『ジプシー娘』という小説の作者をこともあろうにヘルボス(ボルヘスのアナグラム)とするなど、悪ふざけの度が過ぎる。

それだけではない。舞台となる世界はアンチテラという星でテラ(地球)という星とは兄弟惑星の関係にある。そこではテラとは異なる歴史が展開し、ロシアはいまだにタタールの軛の下にあり、一部のロシア人はアメリカに渡りアメロシアという国をつくり、イヴァンたちはそこに暮らしている。SFでいう歴史改変小説、あるいはパラレル・ワールドの設定である。とはいえ、ナボコフが真面目にSFなど書くわけもなく、電気ではなく水流の力で音を伝える伝話という変なガジェットが目に付くくらいで、SFらしさはあまりない。ジッカーという名の空飛ぶ絨毯はミルハウザーのようでちょっと面白いが。

テラとアンチテラとでは時間差があるという設定を駆使し、少年時を回想する場面では馬車が走るなど、時代がかった書割が興を添える。蝶の研究家でもあるナボコフらしく珍しい蝶が舞い、夏の夜に蛍が群れを成して光を明滅する川辺をはじめ、『賜物』で描かれた自然描写に似た、作者の記憶に残るロシアの美しい自然が細密に描写される。もとより、語り手であるイヴァンの記憶に基づくのだから、すべては夢のように美しく描き出される。その文章の密度たるや、比類のない完成度だ。

その一方で、言葉遊びを駆使した文章は、英語の中にフランス語やロシア語がまじるだけでなく、語呂合わせや駄洒落が頻発する。訳者である若島正氏は、ルビの多用や漢字変換の妙技によって、何とか日本語化させているのだが、訳者の苦労がしのばれる新訳になっている。これがどれだけ分かるかは読者の側にどれだけそれを読むことのできる力があるかによってちがってくる。正直なところ、読んで面白がることはできなかった。

自身も現役の放蕩者であるヴァンの父さえも、近親相姦の事実を知ったときにはさすがに息子をなじっているというのに、当事者である二人とも何の苦悩も持つことがない。二人の快楽追求の強度は信じられないほどで、倫理や道徳の出る幕がない。このあたりはさすがにナボコフと感心するばかりだが、余りに周囲の人間に対する配慮というものがない。一途にヴァンを慕うリュセットが歳を重ねるごとに可愛く美しくなってゆくのを見ているだけに、快楽追求のモンスターの輪から外されてしまい、自滅してしまうのが何とも切ない。

難物と言われる『アーダ』だが、これは何度も読む本だと思えばいい。初読時には、家族の年代記として書かれる初めの部分は後回しにしてもいい。ヴァンの母親の狂気について触れた部分も初めから分かる必要はない。ヴァンの時間論についても同じで、分かる読者にとっては楽しめる部分だが、大半の読者にとっては難解だ。しかし、ヴァンとアーダの禁じられた恋愛模様やリュセットの悲劇は勿論のこと、家族や隣人とのピクニックの場面その他には堂々たる古典の趣きがある。

マルクス、レーニンによるロシア革命もなければ、ヒトラーによるユダヤ人の虐殺もないアンチテラでは、貴族の末裔が持てる資産の上に胡坐をかいて、美術品を収集したり、豪華客船で世界中を旅したり、女の尻を追っかけたり、と遊び惚けている。別にうらやましくもないが、アンチテラでの暮らしは、放射能や核ミサイルの恐怖もなさそうだし、政治は誰か有能な人間が担当していそうで、なかなか悪くない。ロシア革命で苦汁を舐めたナボコフにしてみれば、小説の中だけでも、自分の好きなものに囲まれていたかったのかもしれない。

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# by abraxasm | 2017-11-13 10:24 | 書評

『転生の魔』笠井潔

e0110713_18093370.jpgおや、と思って書棚から小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を取り出して、奥付を調べてみた。もちろん最新版の方ではない。桃源社版だ。昭和四十六年四月刊ということは事件が起きた前年だ。同シリーズの古本は函入だったが、手に入れたのはカバー装だった。作中では三年前に復刊とあったから、作中のミステリマニアが手に入れたのは函入だった可能性が高いが、中身は同じだろう。

その解説の中で、澁澤龍彦が松山俊太郎によるエディション・クリティック(批評版)について言及していたが、それが後任者の手によってつい最近完成し、我が家の書棚にも収まっている。一冊の本について、ビブリオグラフィーを完成し、それに基づいて批評版を作り上げるのに、これだけの歳月を要することに改めて驚くが、先人の遺志を継ぎ、それを成し遂げる志にも恐れ入るしかない。

いささか脱線気味のところから話に入ったのには訳がある。実はこの話、事件の起きたのが1972年の十二月二十五日。都内の私立大学のサークル研の部室から一人の女子学生が消失した謎を追うものなのだ。何故そんな昔の話が今頃出てきたかといえば、当時を知る老女が、安保法制に揺れる国会前のデモの群衆の中に旧友の顔を発見したからだ。それも当時そのままの若い顔で。ジンという名の友人は二十二歳の誕生日ごとに死んで再生すると秘密めかして話していたが、まさかそんなことが起きるとは?

私立探偵の飛鳥井は、本名その他の分からない人間を写真だけを頼りに見つけ出すのは不可能だと断るが、それなら名前その他の経歴がはっきりしている男性の現在の居所を調べるように依頼される。当時その大学の東アジア史研究会を主宰していた男だ。それなら可能だと依頼を受け、調査に入る飛鳥井だったが、その男は大学を中退した後行方がわからなくなっていた。

飛鳥井の捜査方法は至極真っ当なものだ。関係者から本人を知る者の名を聞き出し、面会を求めては、少しずつ情報を探り出し、分からない部分を埋めてゆく。一人の人物から次の人物へと、点と点を結んで線を描くようにして少しずつ絵が完成してゆく。そこに現れてきたのは、大学紛争が機動隊によって殲滅され、セクトの活動家は四分五裂した時期、反日武装闘争のために、連携を求めた二グループの集会時に起きた密室内の人間消失だった。

いかにも本格推理小説好みの「密室」もののようだが、麻の上下を着て真夏の東京を動き回る探偵はハードボイルド調。オフィスは『マルタの鷹』の映画をまねて帽子掛けまであるという。派手なアクションはほとんどない。何しろ探偵が六十代後半で、事件関係者の大半が当時大学生だ。まるで老人会のようなものである。その会話に出てくるのが、新左翼の路線問題だとか、武装都市ゲリラによる連続企業爆破事件だとかの話。今の読者はついてこれるのだろうか。

依頼者の祖母から探偵との連絡役を仰せつかった孫は安保法制反対を叫ぶ国会前のデモを主導する学生の一人。同じ大学生ながら、四十年前の過激化する一方の学生運動と現代の統制のとれた温和な大学生気質の対比の意図もあるようだ。作中、かつての反日武装戦線の活動家だった男と孫との対話にそれがよく現れている。

作中人物間の白熱した議論といえばドストエフスキーの作品が有名。『悪霊』の登場人物の一人、ピョトール・ヴェルホーヴェンスキーのモデルとなったネチャーエフの事件は、埴谷雄高の『死霊』にも使われているように作家の想像力をいたく刺激するようだ。今回の事件もそこに端を発している。目的のためなら詐欺師紛いの嘘を積み重ね、仲間を騙し、煽り、利用する革命家の裡に潜む「悪」をどうとらえるべきか、という認識がそこにある。リバタリアンを自任する飛鳥井は態度を保留するが、運動の渦中にいた者は、四十年の間に生き方や思想の上で様々な変化を遂げている。それによって人生を奪われた者もいる。

変わるものと変わらないものというのが、ドラマを成立させるための対立軸となる。四十年という時間を間に挟むことで、今や間近に死を迎えつつある者の中に、それまでに解決しておかなければ悔いが残る案件があった。一人の老女が、大学生時代に知り合ったというセシル・カットの似合う女の子の件もその一つだった。

サルトルとカミュの論争、バリケード内で演じられたアングラ演劇と当時を知る者にとっては懐かしい話題が次々と繰り出され、大江や三島の文学作品への言及もある。特に輪廻転生を主題とする『暁の寺』は、本作の表題からも分かる通り、重要な役割を持たされている。関係者の一人が天啓教というテロを行ったカルト宗教の信者になっている点はオウム真理教を思い出させると共にテロと宗教との関りにも思いは及ぶ。

『テロルの現象学』の著者でもある笠井潔のことだ。かつての東アジア反日武装戦線を今も律儀に引きずっている。日本から海外に出た活動家がいくつもの国を経由していくうちに、左翼からイスラム過激派へと様変わりしていく経過が、独自の理論で整理される。帯にある「本格ミステリ+ハードボイルド+社会問題+思想闘争」という惹句に嘘はないが、本格というにはトリックが弱い。事件の真相も大体想像がつく。思想闘争も作者にとっては重大事だろうが、今の読者にはどうだろう。

酒もたばこもやめて、野菜を中心にした自炊暮らしの老人探偵だが、ハードボイルド探偵小説の醍醐味は残っている。一貫して「私」を使わない一人称視点で語る、飛鳥井の目に映るこの国の姿はかなり荒んでいる。今や日本は二極化された階級社会であり、世代でいえば、中高年、職業でいえば一流企業の正社員と公務員だけが安心して暮らせる世の中になっている。事件関係者の一人は引きこもりの息子の身を案じ、自分が死んでもそれを伏せ、年金をもらい続けるよう遺書に書く。どれだけの死体が家の庭や床下に埋められているか知れないという探偵の言葉に背筋が寒くなった。

老人と病人ばかりがぞろぞろと出てくるハードボイルドというのは異色である。しかし、ある意味リアルでもある。高齢化社会といわれて久しい。探偵も犯人も、当時事件に関わった者はみな老いて病み衰えつつある。人はそれでも何とかやっていかなければならない。私立探偵飛鳥井もそろそろ引退をなどと考えず、まだまだもうひと頑張りしてもらいたい。どうも、それほど安心して次世代に後を頼める世の中になりそうもないではないか。

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# by abraxasm | 2017-11-01 18:09 | 書評
e0110713_11085101.jpg原題は<DODGERS>。言うまでもなく有名なメジャー・リーグのチーム名で、旅に出る少年たちが来ているユニフォーム・シャツに由来する。ドジャースがブルックリンに本拠地を置いていた時代、ブルックリンの住人は行き交う路面電車をかわしながら街を往来しなければならなかった。そこから、ブルックリン地区の人々を 「路面電車をよける (dodge) 人たち」 つまり、 「トローリー・ドジャース」と呼んだ。チーム名はそこから来ていると言われている。

少年時代、ドッジ・ボールが苦手だった。最後に一人残って逃げてばかりいると、味方の外野から「早く当たれ」とやじられる。ゲームが早く終われば、はじめからもう一回できるからだ。後年、「ドッジ」の意味が「よける」だと知り、ひらりひらりとボールをよけていた自分の方が、自ら捕りに行く級友よりも正統的であったことに気づき、留飲を下げた覚えがある。まあ、そんなことで少年時代の苦い思い出は消えたりしないのだが。

クライム・ノヴェルであり、ロード・ノヴェルでもある。ロサンジェルスからウィスコンシンまで、北米大陸を車で東に横断する黒人少年たちの旅と、主人公であるその名もイーストの旅立ちを描く。主人公が十五歳。弟のタイが十三歳、最年長のウォルターでさえ十八歳である。初めは旅を仕切っていた二十歳のマイケル・ウィルソンがラス・ヴェガスでトラブルを引き起こし、仲間から排除されてしまう。それがケチのつきはじめだった。

イーストは、ボクシズ(箱庭)と呼ばれる地区で麻薬業界を仕切るフィンというボスに見張り役として使われていた。ある日、警察に踏み込まれ、組織は打撃を受ける。仕事先の「家」は閉鎖され、失業したイーストは、フィンから直々に、他の三人とウィスコンシンまで行き、自分の裁判を担当する判事を殺せ、という指令を受ける。飛行機を使うと身元が割れる。車で行って仕事をし、終わったらそのまま帰ってくるという筋書だった。

金以外は何も持たずに出向き、銃は現地で調達するはずだったが、四人のはずが三人になったため、銃の取引相手が信用せず、別口で銃を買う羽目に追い込まれる。この辺りの少年たちの困惑と、そこを何とか切り抜ける機転の利かせ具合がなかなか面白い。ひとつピンチを切り抜けるたびに、それまでよく知らなかった相手の頭の良さや口の上手さ、度胸の良さ、危機回避能力などを知ることで、相手をリスペクトするようになってゆく。

口先ばかりのマイケル・ウィルソンが去ると、コンピュータ・オタクのウォルターが、なかなかの切れ者であることが分かってくる。種ちがいの弟のタイは家を出て以来音沙汰がなかったが、組織の雇われ仕事で、銃の扱いに慣れており、いざという時は頼りになる。ただ、何かというと銃を使いたがるので、イーストは扱いに困っている。タイは誰のいうことも聞きはしないのだ。

イーストは、冷静で暴力を好まない。「家」のガサ入れで銃撃戦に巻き込まれて死んだ少女をいつまでも忘れられない。そんな少年がなぜ殺人という依頼を受けたかだが、一つはフィンは父の実弟で、血のつながりがある。もう一つは、組織の危機を招いたのが自分が仕切る見張りチームのミスではなかったかという自責の念だ。さらに言えば、死んだ父の代わりに母に仕送りをしなければならなかった。

廃屋の段ボールの箱で眠り、洗面器で体を洗う少年の暮らしは、人の温みとは無縁だった。そんなイーストが父親代わりに出会うのが、第三部「オハイオ」。請け負った仕事はやり果せたものの、数々の失態から、ついにイーストは厄介者のタイを撃ってしまう。飛行機で家に帰るウォルターと別れ、独り東に向かって歩き出したイーストを雇ってくれたのが、スローター・レンジというウォー・ゲーム場のオーナーだった。

追われる身であるイーストは、このペリーに見込まれ、仕事を任される。模擬弾を使った撃ち合いだが、持ち込まれた弾には危険なものがある。プレイヤーたちが不正をしないか、上から見張ったり、掃除や道具の貸し出しをしたりといった仕事をイーストはしっかりこなした。客からも信頼され、オハイオでの暮らしにすっかりなじんだ頃、ペリーが死ぬ。そんな時、思いもかけないことに襲撃を受ける。

あっと驚くどんでん返しだが、オハイオでの地道な暮らしに共感を感じていた読者としてはありがたくない不意打ちだ。ネタバレになるので詳しくは書けないが、種明かしめいた展開はあまりいただけない。イーストという少年の成長と更生を願う読者としては、これではまるで、イーストが観音様の掌の中を飛び回る斉天大聖悟空のように見えてくる。いっぱしの大人のように思えていたイーストが一気にただの子どもに戻ってしまうのだ。

「書評七福神の今月の一冊」で票を集めていたので手を出した。これがデビュー作というので名うての評者も点が甘かったのかもしれない。広いアメリカを行く少年の目に初めて見える景色や、土地によって異なる人々の暮らしの様子など、少年であればこそとらえることのできる初々しい視点がある。ロード・ノヴェルの新境地かもしれない。ただ、終始十五歳の少年に寄り添った視点では、いくら大人びていても見えるものは限られている。それが叙述トリックなのかもしれないが、見える世界が限られている息苦しさが気になった。

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# by abraxasm | 2017-10-27 11:08 | 書評
e0110713_17572053.jpg北欧ミステリらしいと言っていいのかどうか、ひたすら暗い。そして重い。湖の水位が異常に下がっているので、水位をのぞきに行った研究員が、砂に埋もれた頭蓋骨を発見する。こめかみの上に穴が開いている。もしかしたら殺されたのではないかと考えた発見者は警察に連絡する。鑑識が調べると、骸骨にケーブルが巻きつけられ、その先にロシア製の壊れた無線機が結びつけられていた。まだ水位の高かったころに船から投げ込んだのかもしれない。

捜査を担当するのはエーレンデュルというレイキャビク警察の犯罪捜査官。少年時代父と弟と山に行き、雪崩に遭い弟を見失った過去を持つ。そのせいか失踪者に異常な執着を持つ。妻とは離婚して一人孤独に暮らしている。母親に引き取られた娘とその弟は、母親から父について色々吹き込まれたようで関係はうまく行っていない。それに若手の男性と女性刑事がチームを組む。ハンサムな男性刑事は結婚しているが子どもはいない。女性刑事は料理が得意でレシピ本を刊行し、評判になっている。

派手な捜査は行わない。手がかりをもとに、一つ一つ聞き込みを進め、捜査対象をしぼってゆく。その合間合間に、関係者の個人的なごたごたが挿入され、ああ刑事も人の子なんだなあ、たいへんだ、と同情したくなるエピソードが執拗に投入される。生活感があって良い、と思う読者にはいいのだろうが、シリーズ物を途中から読みはじめた者には、正直こういう部分は本筋を追うのに邪魔になる。それではつまらないのだがとばして読みたくなるのだ。

追う側のあれこれとほぼ同量を費やして追われる側の回想が過去から現在に至るまで、事細かに語られる。本作の主題はこちらの方だ、とでも言っているかのように。それは、第二次世界大戦後、世界がアメリカを中心とする資本主義国家とソ連を盟主とする社会主義国家に二分され、覇権を争っていた時代のことだ。アイスランドから東ドイツのライプティヒに留学した男子学生が、同じくハンガリーから留学中の女子学生と恋に落ちた話である。

それだけなら微笑ましいような話だが、ハンガリー動乱が目前で、東ドイツは運号が広がるのを恐れていた。留学生たちも相互監視を強制され、社会主義の理想に燃える学生の中にも、現実の社会主義国家の在り方には疑問を感じる者も多かった。二人の恋は、その波をもろにかぶってしまい、男の方は祖国に強制送還され、女の方は行方知れずになってしまう。回想しているのは、トーマスという男子学生の方で、湖で発見された死体についてよく知る者のようだ。

死体に結びつけられていたのが盗聴器であったことから、冷戦時代のスパイ疑惑が浮上する。刑事たちは各国大使館に出向き、当時の行方不明者の洗い出しにかかる。特別なひらめきがある訳ではない。捜査はエーレンデュルの直感に基づいて進められる。行方不明者の一人に農機具のセールスマンがいた。バス停に黒のフォード・ファルコンを乗り捨てたまま家で待つ女のところに帰ってこなかった。今でも帰りを待つ女のことが、大事な人を失った者の一人として刑事には気になった。

過去にこだわりを持つ二人の男が、行方の知れない愛する者への思いを抱きながら、追う者と追われる者に分かれて双方から真実に近づいてゆく。湖の男の正体はいったい誰なのか、というのが解かれるべき秘密である。それも、読んでゆくとだいたいの見当はつく。しかし、謎が解決されてもすっきりした気持にはなれない。時代の流れは、社会主義が迷妄であったと切り捨てて今に至るが、今の国際社会の混迷ぶりは、ひたすらに経済的利益を追求してきた資本主義諸国の自由とやらの虚しさを白日の下にさらしている。

秘密警察が国民すべてを監視していた旧東ドイツの社会は極めつけのディストピアだった。それと闘おうとして、力なく敗れた者の無力感が全篇の大部を覆い、読後に重いものを残す。ベルリンの壁が壊れ、東西ドイツは統一されたが、戦後の日本社会同様、不都合な真実に目をつぶり、充分な検討がされないまま有耶無耶になったことがあまりに多いのだろう。登場人物の一人が言う、「私は東ドイツで見た社会主義はナチズムの継続だと思った。たしかにソ連の影が東ドイツ全体を覆ってはいたが、私は行ってまもなくあの国の社会主義はナチズムの新しい形に過ぎないと思った」と語っている。

人が人を監視し、自分とは異なる相手の考えや立場を尊重しようとせず、長い物に巻かれるように、周囲の声に同調し、意見の異なる者を排撃する。ナチズムだけの問題ではない。同じころ、ファシズム国家であったこの国にも、その根っこは残っていたようだ。いつの間にやら時代は七十年前に戻ったようになっている。ひたすら暗く、重いのは北欧ミステリのせいではなかった。この国の今の在り様がそう思わせるのだ。

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# by abraxasm | 2017-10-22 17:57 | 書評
e0110713_11445225.jpg<上下巻併せての評です>

「ファミリー・ヒストリー」というTV番組がある。著名人をスタジオに招き、スタッフが調査してきた何代かにわたる一家の歴史を語ってみせるのが売りだ。たしかに、父や母ならまだしも、祖父母の代以上になると、よほどの名家でもない限り、子孫は詳しくは知らない。よく見かける広告に「家系図作ります」というのがある。本人に代わって一家のルーツを調べ、家系図に書き記すというものだ。だが、一般人が家系などわざわざ調べたくなるものだろうか。

家のルーツなど知らなくても不自由はしない。ただし、自分が誰なのか分からないとしたら、これは別の話だ。もし、小さい頃子供用のトランクを下げて、太平洋航路の大きな客船が着く埠頭に独りでいたのを見つけた。それがあなただと言われたら、あなたは自分の本当の生い立ちを知りたくならないだろうか。名前はおろか生国さえ分からない、となればアイデンティティの危機である。

見つけられた少女は、そのまま発見者ヒューに引き取られ、ネルという名をつけてもらい、幸せな家族に囲まれて育つ。二十一歳の誕生パーティーの夜。ネルは真実を知らされる。今まで家族と思っていた人たちが自分とは血のつながりのない人だったと知り、ネルは少しずつ家族と距離を置きはじめる。やがて婚約者とも別れ、独立して暮らし始める。これが1930年。所はオーストラリアのブリスベン。

ここから話は一気に2005年に飛ぶ。いっしょに暮らしていたネルが死に、孫のカサンドラにコーンウォールの断崖の上に立つコテージが遺贈されたことを知らされる。孤独に暮らしていた祖母が何故英国に家を持っていたのか。それがどうして、自分に贈られるのか。その謎を突きとめるため、カサンドラはネルの遺品のトランクにあったお伽話の本を手に、イギリスに飛ぶ。その本を書いたイザベラ・メイクピースという名前を手掛かりに、ネルの本当の名前を探し出し、その生い立ちを知るために。

お伽話、貴族の大邸宅、迷路、秘密の庭、海賊の洞窟、蔦で覆われた海沿いのコテージ、とケイト・モートン偏愛のアイテムに囲まれて、一族の秘められた歴史を追うファミリー・プロット。祖母とその母に纏わる女たち四代にわたる歴史は、ヴィクトリア朝ロンドンを皮切りに、コーンウォール、オーストラリアと、時代とともに舞台を変え、場所の記憶や遺品への思いを転轍機代わりに、軽々と時空を超え、視点は移り変わり、目まぐるしく話は進んでゆく。

自分の出自や能力、容貌などによる劣等感が人間を捻じ曲げ、いびつなものに変えてゆく。そのために、自分の周りにある、純粋で真正なものを憎悪する。憎悪や悪意が、目に見えない網のように家族をからめ取り、傍目には裕福で優雅極まりない貴族階級の一家がやがて自壊し、没落する様がすさまじい。敵役であるブラックハースト邸の女当主レディ・マウントラチェットは、お伽話に出てくる悪い王妃そのままに謀略の限りをつくし、夫が愛した妹似の姪を苛めぬく。

一方、主人公の女たちは、へこたれない子(サバイバー)として描かれる。たった一人でロンドンからオーストラリア行きの船旅を乗り切ったネル。母がありながら、小さいときに祖母の家に預けられ、孤独に生きることに慣れたカサンドラ。貴族の娘に生まれながら、船乗りと駆け落ちした母のせいでロンドンの貧民窟で育ったイザベラ。誰もが家族との縁を断ち切られ、困難な状況に置かれても、自分の手で環境を切り拓いてゆく。抽象的な意味ではなく、自分の手を使って、庭を造り、家や家具を修理し、そこが自分の居場所(ホーム)だ、といえる場所にしてゆく。

題名が『秘密の花園』と似ている。それだけでなく、父が留守がちであったり、入ることを禁じられた塀で囲われた秘密の庭があったり、と設定の酷似することに怪訝な思いを抱くかもしれない。種明かしをすれば、当時『小公子』を発表したばかりのバーネットがマウントラチェット家で開かれるパーティーに招かれ、この家の庭を見たことが執筆動機となったように書かれている。作家だけでなく同時代の画家ジョン・シンガー・サージェントに、重要な手掛かりとなる肖像画を描かせるなど、工夫がうかがわれる。

イライザ自作のお伽話が、総ルビ付きで飾り枠に囲まれ、本文の間に挿入される。このお伽話がネルの生い立ちについての謎解きの手引きになっている。初読時にはただのお伽話にしか読めないが、すべてが明らかになってから再読すれば、いちいち合点がいく。初版本にあるという画家ナサニエル・ウォーカーによる挿絵のないのが残念だが、そこは想像力で補ってもらうしかない。ミステリ色は薄いが、その分『レベッカ』や『ジェイン・エア』、『嵐が丘』を思わせるゴシック・ロマンス風味がある。テムズ川沿いの貧民窟の場面など、ディケンズそのもの。作中に忍ばせた名作のパスティーシュ探しも文学好きにはたまらない。

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# by abraxasm | 2017-10-19 11:45 | 書評
e0110713_10391416.jpg冒頭、銃弾が頭を貫通した女が痛みを感じずに車を走らせる場面が出てくる。前頭葉前部を撃ち抜かれていても、そういうことが可能だという。車を降りてハリウッドの看板まで歩いて行った女はそこで倒れ、翌朝日本人観光客に発見されて病院に送られる。半年後、リハビリの甲斐あって女は言葉も話せるようになるが、記憶がすっぽり抜け落ちている。一時的な記憶喪失とはちがう。弾丸と手術のメスによって脳の一部が摘出されたからだ。その結果、女は人格さえ以前とは別のものになっていると医者は言う。

厄介なことに身分を証明する免許証その他を何も所持しておらず、着ていた服はどこでも買える量販品で、テレビで放送されたにもかかわらず彼女を知っているという関係者は現れなかった。身元不明の女につけられる名前、ジェーン・ドーとして女は過去と決別し、新しい人生を生きることになる、はずだった。ところが深夜の病室で何者かに殺されそうになり、担当医の計らいで、ビヴァリー・ヒルズの豪邸で暮らすことに。

記憶をなくした女が、記憶を取り戻すのでなく、新しい人格のもとに出直そうというのがめずらしい。普通なら何としてでももとの自分に戻りたいと思うはずだ。しかし、リセットがきくものなら、そうありたいと考える人間の方が実際は多いにちがいない。人生をはじめからゼロにしてやり直せるチャンスなど誰にもないに等しい。ところが、ジェーンに異変が起こる。完全に防犯管理されたはずの豪邸に、見えるはずのないインディアンの姿が見えたり、眠っているうちに夢遊病状態で変装したりする奇行が現れる。

ジェーンの訴えで担当医のクルーグは女性のボディガードをつけることにする。射撃の名手のサラだ。サラにはデイヴィッドという息子がいた。彼は先天性免疫疾患に冒されていて、菌に耐性がなく、サラの経営する警備会社の地下にある部屋に作られた無菌室から一歩も出ることなく、あらゆる情報を処理していた。クルーグがサラの援助をしていた関係でサラはジェーンの庇護者になる。四六時中一緒にいるうちに二人は互いをよく知るようになる。ジェーンは夢で見たことを少しずつサラに話す。それは信じられない話だった。

前頭葉被切断者は、なくした記憶を補填するため、後づけの記憶から偽の記憶を作り出すことがあるという。ジェーンのそれは、殺し屋だった。それもCIAに類した組織の依頼を受け、長期間ターゲットをつけねらい、最後には死に至らしめるというものだ。ジェーンの話を裏付けようと現地に赴いたサラは、話が事実であったことに驚く。担当医のクルーグはそれは本で読んだことを自分の記憶と勘違いしているだけだとサラをいましめるが、ジェーンの話は詳細で事実に合致している。サラは次第にジェーンの話を信じるようになる。

蘇った記憶が真実なのか、それとも精神科医の言うようにすべて虚言なのか、読者はその結果を知りたいと思い読み進める。次々と現れる新たな事実が、それまでの読みをひっくり返し、新たな読みを浮かび上がらせる。探偵役のサラと一緒に読者も翻弄されてしまう。この間のミスディレクションはなかなかよくできている。再読してみたが、かなり、誠実に事実がほのめかされていることがよく分かる。問題はSF的な設定と極端なまでに過酷な幼少期の記憶が事実を見抜くのを妨害しているのだ。

記憶に中のジェーンもサラも共に保護者の強権に屈し、従順にその保護者の望む通りの人生を送ってきている。見ようによっては完全に虐待されているのだ。そういう過去を共有する二人がともに行動するうちに、精神的に共振するようになってゆくのは理の必然と言っていい。サラの視点を通して、ジェーンの過去を判断していくしかない読者はそれに引きずられて事態を読んでゆくことを要求される。ある意味で、信頼できない語り手による話を聞かされているようなものだ。

話自体は非常に興味深く、若干強引なところや、SF的なギミックが気になるところもあるが、ヒッチコック映画を見ているようなサスペンスは鮮烈だ。誰が本当のことを言っているのか、ジェーンは本当は誰なのか、彼女の記憶は真正なものなのか、最後まで明らかにされないまま事態はどんどん悪化してゆく。最後の最後に明らかにされた真実にはあっと驚く仕掛けが用意されている。ミステリとエスピオナージ、それにほんの少しばかりSF的なスパイスを効かせた本作はアメリカを舞台にしているが書いたのはフランスの作家だ。

最近読んだ新聞の書評欄に「フランスでは1日2人が虐待で命を落とすが、「家庭内のしつけ」とタブー視され、社会的関心は低い」と書かれていて驚いた(『父の逸脱/ピアノレッスンという拷問』セリーヌ・ラファエル著)。「犬の虐待の方が関心が高いぐらい」だと著者は言う。そうした社会背景の上に成り立ってこの作品は書かれている。作家自身が精神障害を持つ母のせいで不遇な幼年時代を送ったらしい。皮肉なことだが、それが作品をリアルなものにしているのはまちがいない。何者にもなることなく老いを迎えた身には、しつけの名を借りて自分の願望を子に押しつけようとしなかった両親に感謝したくなった。

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# by abraxasm | 2017-10-16 10:39 | 書評

覚え書き


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